余滴

(イースター黙想)
「走って行って」
(ヨハネによる福音書20 : 2 )

復活の朝早く、ヨハネ福音書では、マグダラのマリアだけが走る 。
マリアは、
十字架の上でキリストが、
「成し遂げられた」と言われて死なれた、あの時(ヨハネ福音書19 : 30 )、
葬りのための充分な時間が取れなかったので、
安息日が明け、夜が明けるのを、じりじりと待って、
エルサレムから、あの「園」 ( 19 : 41 )の 新しい墓まで走り、
誰よりも早く、墓に着いた。

誰よりも早く、だったのに、
でも、
墓の石は既に、何者かによって「取りのけて」あった ( 20 : 1 )。

マリアは、
再び走って、
ペトロと主の愛弟子とに、
「見た」ことを告げる。

そして、
さらに走って、
ヨハネやペトロと共に墓に戻る。

マリアは、主に追いつこうと思って走ってきた。
キリストの後ろ姿に向かって、その背中に追いすがろうと思って、
その背中を目指して走ってきた。
だからこの時、「身をかがめて墓の中を見る」。

彼女は、
自分の視線の前方にキリストがおられる、と思っている。
「墓の中に」、私の視線が見極めようとするその先に、キリストがおられる、と思って、
「墓の中を見る」。

確かに信仰とは、
キリストの十字架を仰いで己が馳せ場を行くこと。
マグダラのマリアも、そのようにキリストを追う。
その走りは立派。信仰ゆえの、あっぱれな、確実な足の運び。
キリストのみを目指して馳せ行く見事な走法。
でもそれは、
“キリストの背中に追いつきたい”という、彼女の思い。
そう、マルアは、“自分の思い”で走る。

そして、行き着いた「墓」で、
誰よりも早く来たはずの「墓」で、
人の思いを越えた神の御心が実現しているのを見る。

既に、
墓の石は、神の御旨によって取りのけられている。
でも、人はそのことを悟り得ない。
マリアもまた理解できない。

そして、自分の前にのみキリストを見いだそうと、ひたすら走って来たマリアに、
否、私に、
主は、後ろから近づいてくださる ( 14、16節)。
マリアは「振り返って」キリストと出会う。

今日、
キリストの復活に出会った者は、
マグダラのマリアも、
また私も、
後ろから近づいて来られるキリストの証言者になる。
前方、キリストの十字架を仰ぎ、人の計画 ( プラン ) に先立って、
神さまの摂理 ( ヴィジョン ) が実現することを確信し、
後方、近づいて来てくださるキリストに背中を押していただいて、
「わたしは主を見ました」( 18節 ) と
語り、伝えて行く者とされる。

そう、
復活の朝に、キリストに出会うために走る者は、皆。