余滴(11月9日)

終末節黙想
「主は弱り果てたわたしを救ってくださる」
(詩116篇6節)

人生の結末をどのように迎えるか、私は自分で決めることができない。
このように生きて来たのだから、このように死ねる、と言えるわけではない。

詩116編の詩人は、嘆き祈る自分を知っている。
祈りが、嘆きで終始する時がある。詩人の状況は危機的。
詩人は、「死の綱がわたしにからみつ」くのを見ている( 3 節 )。好転の見込みはない。
しかし、その困窮の窮みにあって、116篇の詩人は、叫ぶ。神に叫ぶ。
御名を呼んで詩人は、「わたしの魂をお救いください」と言うことができることを知っている( 4 節 )。
神の御名を呼び得ることができる、と詩人は知っている。

詩人は、自分のことを、「哀れな人」( 6 節 )と理解している。
この「哀れ」は、「憐れ」ではない。
文語訳では「愚 ( おろ ) か」という訳。神の前に愚直であろうとする者、それが詩人。
「憐れまれる」ことすらなく、排除の対象でしかない「哀れ」さを覚悟をもって生きる、のが詩116篇の詩人。
そのような詩人に対して神は憐れみ深く、「正義を行われる」、必ず( 5 節 )。しかし、詩人の危機は去らない。

そして詩人は、確信している。「わたしたちの神は情け深い」と( 5 節 )。

詩人の神への信頼はなぜ揺るがないのか。
私は、そのことを巡って戸惑う。

私は、全てを主の御旨に託して、困難を、病いを、状況を受け入れることができない。私は、嘆く。
私は、詩人のような神への信頼に立ち得るのか。

詩人は、「主の慈しみに生きる人の死は主の目に値高い」と宣言する( 15 節 )。
私は、詩人のように「主の聖徒」( 文語訳 ) と言い切り得る歩みを、
「われは活るものの國にてヱホバの前にあゆまん」と言い切る歩みを、
この地上で、生ききることができるのだろうか、と躊躇する。

しかし、自分に踏み留まる私も、この詩人に慰められる。
私の努力では「主の前を歩み続け」ることができないとしても、否、私の努力では歩み得ないのだから、
だから、神は、私に憐れみ深くいてくださるのだと、とのこの詩人の確信によって。