四旬節黙想
「境内で子供たちまで叫んで」
( マタイによる福音書 21 章 15 節 )
マタイによる福音書は、「それから、イエスは神殿の境内に入り」(21章12節)と記す。
主は、神が祝福し続けておられる都に来られる。
そして、神殿の「境内」へと歩み行かれる。
そして、そこでの出来事を福音書は、「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばによって来た」(14節)と伝える。
さらに、「境内で子供たちまで叫んで」(15節)とも言葉を重ねる。
今や、神殿の「境内」は、そもそも入ることがゆるされなかった人々で、そして、数に入らない子供たちで、満ちているのだ、と福音書は語る。
「律法」がイスラエル共同体の外に置く、「目の見えない人や足の不自由な人」、年齢的に「一人前」と数えられない「子供たち」が、イエスをメシアであると、「ダビデの子」であると、宣言する。
ご降誕の時に、東方の占星術の学者たちが(つまり異邦人が)、「ユダヤの王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」(2章2節)と言い、「民の祭司長たちや律法学者たち」(2章4節)に先んじてキリストを礼拝するように、今また、「目の見えない人や足の不自由な人」、「子供たち」が、「祭司長たちや、律法学者たち」(15節)よりも早く、明瞭に、端的に、イエスをメシアであると告白する。「ダビデの子にホサナ」(21章15節)と。
今日、「ダビデの子にホサナ」と叫ぶ「子供たち」は、その無垢さ、純真さのゆえに辺地から神殿の「境内」という中心へと迎え入れられる。
そう、ご降誕に続く「幼な子殉教者」の出来事に示されている「子供たち」と共に。
神殿の「境内」において、神の御前において、権威と周辺はその立地を転じる。それが、「主が来られる」、ということ。虐げられ、闇に追いやられ、迫害され、殉教させられた者が、「ホサナ」と叫び、喜びの内に「神殿」でメシアに出会う。律法学者たちが「腹を立て」(21章15節)る中、十字架の贖いの接近の只中で。イエスの祝福の内に。
(2013年2月24日週報改)