余 yoteki 滴(3月8日)

四旬節黙想
「ベニヤミンの袋の中から杯が見つかった」
(創世記44章12節)

ベニヤミンの穀物の袋を開けると、「銀の杯」が入っている。
「銀の杯」は、ヨセフ自身。

ヨセフは執事に言わせる。「あの銀の杯は、わたしの主人が飲むときや占いのときに、お使いになるものではないか」(創世記44章5節)。
「銀の杯」は、ヨセフの聖と俗の両界を交差させる道具。ヨセフの「執政」としての執務の傍らにあり、ヨセフが「夢見る人」であるとき、ヨセフと神との世界の傍らにある。
ヨセフは、その「銀の杯」を、同母弟のベニヤミンに、そっと預ける。

ヨセフに奴隷として引き渡されたベニヤミンを、兄たちが買い取ることでしか、ヨセフが兄たちとの間の失われた信頼を回復できない。ヨセフは、代価を払って購われた者だ。そのヨセフが、弟ベニヤミンの買い戻しを、購いを、兄たちに持ちかける。ベニヤミンと一緒にベニヤミンの同母兄であるヨセフも父が買い戻すことを。つまり、ヨセフの正当な権利の回復を。

しかし、事はヨセフが企図したようには進まない。
「夢見る人」であるヨセフは、人の計画、人の思いに、神が明瞭なる否をもって介入されることを良く知っている。
ヨセフは、自分で立てた計画のその最後の、詰めの時に、歯を食いしばって生きてきた人、理性と努力の人であることをやめる時が来たことを知る。

彼は、「もはや平静を装っていることができなくなり、『みんな、ここから出て行ってくれ』と叫んだ」(創世記45章1節)。
ヨセフは、ここまでをエジプト語で語る。後は、兄たちとの会話は、彼の母語になる。
冷静な、怜悧な吏員としてのヨセフではなく、「泣く者」としてのヨセフがそこにいる。

神の介在は、ヨセフという一人の人をありままのその人へと連れ帰る。組織の人を家族の人にし、理知の人を感性の人にする。エジプトの執政でありながら、ヨセフは小さな部族ヘブライ人の長となる。
「エジプト語」を語る“執政ヨセフ”は、「ヘブライ語」を用いる“神と共にいる人ヨセフ”に変えられる。
そうヨセフは、関係を取り戻す祝福の器に、主にある器へと変えられるのを私たちは見る。
(2012 / 2 / 26 週報改)