余yoteki滴 四旬節黙想 2017年3月26日

「ぶどう園に行きなさい」(マタイによる福音書20章7節)(その4)

さて、私は、自分の目にある丸太に、気づくことができない(マタイ7:4)。

そして、丸太で目がふさがれているから、私は「不平」を言う(20:11)。

「家の主人」が、神が、何度もなんども、いつの時も、語りかけ、招いてくださった、神と私との「約束」(協定 / 契約)の、その大きさ、無限さには目を向けず、他人が、神さまから恵みをいただく時には「不平」をならす。その「悪しき」思いは、ただ、私の内からのみ、出る。

神は、そねみ、「一歩、一歩を踏み誤りそう」(詩 73: 2)になる私に、「悪しき」を内にかかえ続けている私に、その内側のままでいい、潔(きよ)いとは言えないままでよい、そうおっしゃり、声を掛けてくださる。

あなたも、「ぶどう園に行きなさい」、私のところに来なさい、と。

だから私は、このままで、「悪しき」目のままで、その目を覆いつつ、主のもとへ、「ぶどう園」へ歩み出して行く。

私には、自分の目を覆うことしか、できないから。

「悪しき」目で、主よ、あなたを見ることはできないから(イザヤ書6:5)。

あなたが、そのままでよい、と言ってくださる。

だから、私は、片方の目で、「悪しき」目ではあるけれども、その目を開いて、あなたの「ぶどう園」への道を、捜し求めて歩み出す。

そう、主よ、このままで、私も、あなたの「ぶどう園」への道を、この四旬節に、歩み出す。

あなたの、呼び掛けてくださる声にのみ、信頼して。

余yoteki滴 四旬節黙想 2017年3月19日

「ぶどう園に行きなさい」(マタイによる福音書20章7節)(その3)

私は「家の主人」の声を聞く。風が吹く頃、薄暮の時が来て、暗闇が迫ってくる中で。

時間は、日没前。

一日の仕事が終わり、一日が終わろうとしている時。

だが、ユダヤの人たちの、聖書の、時間感覚では、夕は一日の始まり(「夕べがあり、朝があった」創世記1:5)。

だから、この1デナリオンをいただくこの時刻は、1日分のつとめが終わる時であるとともに、新しい一日の始まりの時。

「家の主人」は、始まろうとする新しい一日のために、1デナリオンを手渡す。

日中の労働の対価、というよりも、もっと積極的に、新しい一日を生きて行くための1デナリオンを、一人ひとりに、預ける。だから、御言葉が響く。

「信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」(ローマの信徒への手紙4:5)と。

それ故、「家の主人」は言う。「気前のよさをねたむのか」(20:15)。

この箇所(20:15)、文語訳は「我よきが故に、汝の目あしきか」。

この訳は、ギリシア語で記された御言葉の雰囲気を、私たちに伝える。

1デナリオンの「協定」(シュラッターの『講解』(日本語訳)での表現)を、そのまま、“値引き”も、“交渉”も、“取り引き”もなしに、守る方である「家の主人」、つまり神の「善」(ぜん /「よき」)に、私は口を挟めない。

そして、「家の主人」である神は、はっきりと、私に、「汝の目あしきか」と言われる。

私の「目」は、最後に来た人から順に、ぶどう園の「監督」が1デナリオンを支払って行くのを見ている。そして、「不平を」言う。私の目は「悪しき」もの。

実は、この聖書の箇所は、2017年の「世界祈禱日」(3月の第1金曜日)の福音書日課。

そして、2017年の「世界祈禱日」の「式文」や「ポスター」(http: //cloister171. blog.fc2.com/ blog-entry-17. html)には、片目を右手で隠し、左手に天秤をもった女性が描かれている。

「式文」を手にした時から、この女性はなぜ片目を手で覆っているのだろうか、と不思議に思ってきた(表紙の絵のタイトルは「垣間見たフィリピンの状況」と記されている)。

やっと気がついた。

15節で、私は、「汝の目あしきか」と言われる。私の「目」は、いつでも「悪しき」もの。

この世の出来事が、ここで、私の前で起こっている現実が、「悪しき」事、なのではない。むしろ、それを見て、「不平を言う」私こそが、「悪しき」目を持っている。

私は、「悪しき」目で、「家の主人」のなさるさまを見ては、「不平」を言う。

さらに、「不平」という口を挟んでは、神の「善」(ぜん /「よき」)を軽んじている、のだと。(以下次回)

2017年度 礼拝予定・行事予定

2017年度 礼拝予定

3月25日(日)棕櫚の主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 15章 1-5節
説教  「ピラトは不思議に思った」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、494、308、311、89

3月18日(日)四旬節第5主日礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 12章 20-33節
説教  「わたしは、心騒ぐ」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、290、308、309、89

3月11日(日)四旬節第4主日礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 6章 4-15節
説教  「どこでパンを買えばよいだろうか」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、289、300、504、89

3月4日(日)四旬節第3主日聖餐礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 2章 19-22節
説教  「建て直す」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、291、299、305、475、83、86、89

2月25日(日)四旬節第2主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 8章 31-38節
説教  「自分の十字架」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、1編143、433、1編495、89

2月18日(日)四旬節第1主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 1章 9-13節
説教  「荒れ野」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、284、1編120、1編137、89

2月11日(日)大斎節前主日・創立記念日(信教の自由を守る日)聖餐礼拝
聖書  マルコによる福音書 9章 2-9節
説教  「口をはさんで」  服部 能幸 牧師
讃美歌 53、285、1編182、1編247、79、83、86、88

2月4日(日)顕現節第5主日聖餐礼拝
聖書  マルコによる福音書 1章 29-39節
説教  「戸口に集まった」  服部 能幸 牧師
讃美歌 53、1編120、1編175、362、78、83、86、88

1月28日(日)顕現節第4主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 1章 21-28節
説教  「正体は分かっている」  服部 能幸 牧師
讃美歌 53、1編226、1編233、577、88

1月21日(日)顕現節第3主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 1章 14-20節
説教  「神の国は近づいた」  服部 能幸 牧師
讃美歌 53、226、283、287、88

1月14日(日)顕現節第2主日礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 1章 43-51節
説教  「出会った」  服部 能幸 牧師
讃美歌 53、189、185、158、88

1月7日(日)顕現節第1主日聖餐礼拝
聖書  マルコによる福音書 1章 7-11節
説教  「神がなさった証し」  服部 能幸 牧師
讃美歌 53、276、277、410、390、83、86、88

12月31日(日)降誕節第1主日(歳晩主日)礼拝
聖書  ルカによる福音書 2章 22-40節
説教  「啓示の光」  服部 能幸 牧師
讃美歌 278、181、275、276、89

12月24日(日)イブ燭火礼拝       19:00~
聖書  ルカによる福音書 1章 1-14節
説教  「あたながたは、見つけた」  服部 能幸 牧師

12月24日(日)待降節第4主日クリスマス聖餐礼拝
聖書  ルカによる福音書 1章 26-38節
説教  「この挨拶は何のことか」  服部 能幸 牧師
讃美歌 228(4、頌栄)、175、246、248、232、83、86、89

12月17日(日)待降節3主日礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 1章 6-9節
説教  「光について」  服部 能幸 牧師
讃美歌 228(3、頌栄)、231、177(輪唱)、236、89

12月10日(日)待降節第2主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 1章 1-8節
説教  「洗礼者ヨハネがあらわれて」  服部 能幸 牧師
讃美歌 228(2、頌栄)、193、234、241、89

12月3日(日)待降節第1主日聖餐礼拝
聖書  マルコによる福音書 13章 32-37節
説教  「目を覚まして」  服部 能幸 牧師
讃美歌 228(1、頌栄)、230、246、473、74、83、86、89

11月26日(日)終末主日/収穫感謝祭全体礼拝
聖書  列王記(上)8章 27-34節
説教  「『わたしが建てたこの神殿』って言っちゃうソロモン」  服部 能幸 牧師
讃美歌 こども(讃美歌21)   5(ー)、118(544)、101(ー)、122(419)、24-2(64)、25(24)

11月19日(日)終末前主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 25章 14-30節
説教  「自分の財産」  服部 能幸 牧師
讃美歌 482、411、566、577、488

11月12日(日)終末前前主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 25章 1-13節
説教  「ともし火」  服部 能幸 牧師
讃美歌 482、230、453、575、488

11月5日(日)召天者記念日聖餐礼拝
聖書  マタイによる福音書 23章 1-12節
説教  「へりくだる者は高められる」  服部 能幸 牧師
讃美歌 482、382、573、572、76、18、83、86、42-1、488

10月29日(日)三位一体後第20主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 22章 34-40節
説教  「主を愛しなさい」  服部 能幸 牧師
讃美歌 482、475、517、563、488

10月22日(日)三位一体後第19主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 22章 15-21節
説教  「神のものは神に」  服部 能幸 牧師
讃美歌 482、456、497、543、488

10月15日(日)三位一体後第18主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 22章 1-14節
説教  「選ばれる人は」  服部 能幸 牧師
讃美歌 482、378、440、576、488

10月8日(日)三位一体後第17主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 21章 33-43節
説教  「相続財産」  服部 能幸 牧師
讃美歌 482、464、441、430、488

10月1日(日)三位一体後第16主日・世界聖餐日・聖餐礼拝
聖書  マタイによる福音書 21章 28-32節
説教  「あなたたちはどう思うか」  服部 能幸 牧師
讃美歌 482、151、487、539、375、83、86、488

9月24日(日)三位一体後第15主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 20章 1-16節
説教  「ふさわしい賃金」  服部 能幸 牧師
讃美歌 482、226、535、562、488

9月17日(日)三位一体後第14主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 18章 21-35節
説教  「七の七十倍までも」  服部 能幸 牧師
讃美歌 482、413、459、461、488

9月10日(日)三位一体後第13主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 18章 15-20節
説教  「ほかに一人か二人」  服部 能幸 牧師
讃美歌 482、361、408、458、488

9月3日(日)三位一体後第12主日・振起日・聖餐礼拝
聖書  マタイによる福音書 16章 21-27節
説教  「褒められた後」  服部 能幸 牧師
讃美歌 482、211、232、356、488

8月27日(日)三位一体後第11日礼拝
聖書  マタイによる福音書 16章 13-20節
説教  「叱られる前」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、228、400、468、49

8月20日(日)三位一体後第10主日礼拝
聖書  コリントの信徒への手紙(2) 5章 1-10節
説教  「主に喜ばれる者でありたい」  小西 淳 牧師
讃美歌 4、576、537、458、49

8月13日(日)三位一体後第9主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 14章 22-33節
説教  「主はみ手を伸ばして」  浜田 望 長老
讃美歌 4、18、459、419、49

8月6日(日)主の変容・三位一体後第8主日・平和聖日聖餐礼拝
聖書  マタイによる福音書 17章 5節
説教  「夕暮れになった」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、285、371、535、454、83、86、49

7月30日(日)三位一体後第7主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 13章 44-52節
説教  「畑に宝が」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、394、412、566、49

7月23日(日)三位一体後第6主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 13章 24-43節
説教  「毒麦も現れた」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、183、539、566、49

7月16日(日)三位一体後第5主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 13章 1-23節
説教  「蒔かれたもの」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、450、503、540、49

7月9日(日)三位一体後第4主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 11章 25-30節
説教  「休ませてあげよう」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、497、506、516、49

7月2日(日)三位一体後第3主日聖餐礼拝
聖書  マタイによる福音書 10章 37-42節
説教  「冷たい水を一杯」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、528、560、576、76、83、86、49

6月25日(日)三位一体後第2主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 10章 26-33節
説教  「『知らない』と言われてしまう時」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、211、482、543、49

6月18日(日)三位一体後第1主日礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 6章 51-58節
説教  「『わたしはパン』発言は激論になる」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、56、457、461、49

6月11日(日)三位一体主日・花の日こどもの日全体礼拝 (9:00開始)
聖書  マタイによる福音書 6章 25-34節
説教  「思い悩むな、って言われても」  服部 能幸 牧師
讃美歌 (こども)114(21-470)、94(ー)、118(21-544)、24-2(21-64)、32

6月4日(日)聖霊降臨祭(ペンテコステ)聖餐礼拝
聖書  使徒言行録 2章 1-13節
説教  「新しいぶどう酒に酔っている」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、341、343、392、419、83、86、49

5月28日(日)復活後第6主日(ききたまえ)礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 15章 26 – 16章 4節
説教  「ひとつのことを主に願い」  新井 美穂 牧師
讃美歌 319、211、336、482、49

5月21日(日)復活後第5主日(いのれ)礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 14章 15-21節
説教  「心の中で」  新井 美穂 牧師
讃美歌 319、236、321、430、49

5月14日(日)復活後第4主日(うたえ)礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 14章 1-14節
説教  「その道を知っている」  新井 美穂 牧師
讃美歌 319、316、492、539、49

5月7日(日)復活後第3主日(よろこべ)聖餐礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 10章 1-10節
説教  「我は羊の門」  新井 美穂 牧師
讃美歌 319、391、324、97、453、83、86、49

4月30日(日)復活後第2主日(主のあわれみ)礼拝
聖書  ルカによる福音書 24章 28-35節
説教  「あなただけはご存じなかった」  新井 美穂 牧師
讃美歌 319、334、506、540、49

4月23日(日)復活後第1主日(新生)礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 20章 24-31節
説教  「命を受けるため」  服部 能幸 牧師
讃美歌 319、441、411、328、49

4月16日(日)復活祭墓前礼拝
聖書  コロサイの信徒への手紙 3章 1-4節
説教  「上にあるものを求め」  服部 能幸 牧師

4月16日(日)復活祭(イースター)聖餐礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 20章 1-10節
説教  「外に出て墓に行った」  服部 能幸 牧師
讃美歌 319、325、333、572、562、83、86、49

4月9日(日)棕櫚の主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 27章 62-64節
説教  「『三日後に復活する』と言っていた」  服部 能幸 牧師
讃美歌 308、294、300、411、43-3

4月2日(日)四旬節第5主日《ユディカ(あなたの裁きを》礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 11章 23-30節
説教  「すぐ立ち上がり、イエスのもとへ」  服部 能幸 牧師
讃美歌 308、502、311、292、298、83、86、43-3

余yoteki滴 四旬節黙想 2017年3月12日

「ぶどう園に行きなさい」(マタイによる福音書20章7節)(その2)

「家の主人」は、私たち一人ひとりに声を掛けてくださる。

一人ひとりと、「約束」をしてくださる。

「家の主人」は、私と約定をかわす。それは、私の働きに応じての“評定”ではなく、「家の主人」の方から、神さまの方から、先に、“こうしよう”、と言ってくださる「約束」。

そういう「約束」を携えて、「家の主人」は、私のところに来られる。

そして語られる。しつこいくらいに何度。私と「約束」しよう、「ぶどう園に行きなさい」と。この私を、招かれる。

ところで、私の友人のご父君は、生前、年を重ねてから信仰へと歩み出した人だった。

彼は自分のことを「午後五時の労働者」と言っていた、と、葬儀の時に牧師が語っていたのを今でも思い出す。

友人の父君は、「午後五時」に、召しを聴いた、という、しっかりとした自覚に生きた。人生の後半生を(「午後五時」以降を)、“主の招きに応じた人”として歩んだ。

彼は、「ぶどう園に行きなさい」という御言葉に従って、

「何もしないで…立っている」人生をやめて、

「ぶどう園」へと歩み出す人生へと、

御言葉によって転換された。

彼は、そのことを自覚的に受けとめ、「ぶどう園」へと歩み出して行く。“私は、「午後五時の労働者」である”、と告白して。

確かに、私は、人生のある一瞬に、キリストと出会う。

私は、今、始めて、主に出会ったと思う。今、はじめてキリストの御言葉を聴いた、と思う。

でも、「家の主人」は、夜明けに、九時に、十二時に、三時に、五時にも、私のところに来られ、私に声を掛けてくださる。「ぶどう園に行きなさい」、私との「約束」に生きなさい、と。私がその声に聴き従うまでは、何度でも、私のために来てくださる。「何もしないで…立っている」生き方をやめて、私との「約束」の内を歩み出しなさい、と。

「家の主人」である神さまの呼びかけに応える、ということは、今、「立っている」、この場所を去る、ということ。

「何もしないで」も「立って」いられる、この安定をやめる、ということ。

安穏とした生活、神さまを必要としない生活から、神さまとの「約束」だけが頼りの歩みへと人生を大きく変えられる、ということ。それが、「天の国」の到来ということ。それが、到来している「天の国」に向かって歩み出すこと。そのように、「家の主人」は、私を招く。

そう、私は、いつでも、キリストから語りかけていただいている。

人生の始まりから、今、そして、終わりに至るまで。ずっと。(以下次回)

余yoteki滴 四旬節黙想 2017年3月5日

「ぶどう園に行きなさい」(マタイによる福音書20章7節)(その1)

イエスさまは、到来する「天の国」について示される。

この「天の国」は、遠くにあって、仰ぎ見るものではなく、声の届かない彼方にあるのでもない。行きつくことの出来ない深淵の向こう側にあるのでもない。この「天の国」は、あなた方のただ中に到来する、とイエスさまは、私たちに語りかけられる。

「天の国は…ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行」(マタイによる福音書20章1節)くようなもの。

「天の国」が到来するということは、「主人」がみずから「夜明け」には出発して私たちのところに来てくださる、そういう来訪の仕方で、私たちの只中に到るものだ、とイエスさまは示される。

現実に、もし、ぶどう園を所有している大土地所有者が、「労働者を雇う」としたら、彼あるいは彼女は、自分の執事に命じ、執事は荘園長に命じ、荘園長はぶどう園の管理責任者に命じ、ぶどう園の管理責任者は、現場責任者に命じ…としているうちに、「家の主人」が決めた「気前のよい」一人あたま1デナリオンという賃金は、実に見事に中間で搾取され、「労働者」一人ひとりに手渡される時には、よくて半分、まあ、1/4程度にまで減っている、ということになる。

だから、「家の主人」がみずから「労働者を雇うために」「出かけて行」くということ、そのことが、聴く者には驚き。

私たちの内に来る、来ている「天の国」は、神御自身が、みずから「夜明け」を待つようにして私のところへと来てくださる、そういう出来事なのだ、とイエスさまは、今日、私に、お告げになる。

そう、「家の主人」は、みずから私のところに来てくださる。

「家の主人」は、「夜明け」頃だけではなく、「九時ごろ」にも、続いて「十二時ごろと三時ごろ」にも私のところを訪れてくださる。さらに、「五時ごろにも」来てくださる。「天の国」は、このように到来する。神は、御自身の熱意をこのように示される、とイエスさまはいわれる。何度でも、限りなく、私のところに来てくださる、神さまの方から。 (以下次回)