余yoteki滴 四旬節黙想 2017年3月12日

「ぶどう園に行きなさい」(マタイによる福音書20章7節)(その2)

「家の主人」は、私たち一人ひとりに声を掛けてくださる。

一人ひとりと、「約束」をしてくださる。

「家の主人」は、私と約定をかわす。それは、私の働きに応じての“評定”ではなく、「家の主人」の方から、神さまの方から、先に、“こうしよう”、と言ってくださる「約束」。

そういう「約束」を携えて、「家の主人」は、私のところに来られる。

そして語られる。しつこいくらいに何度。私と「約束」しよう、「ぶどう園に行きなさい」と。この私を、招かれる。

ところで、私の友人のご父君は、生前、年を重ねてから信仰へと歩み出した人だった。

彼は自分のことを「午後五時の労働者」と言っていた、と、葬儀の時に牧師が語っていたのを今でも思い出す。

友人の父君は、「午後五時」に、召しを聴いた、という、しっかりとした自覚に生きた。人生の後半生を(「午後五時」以降を)、“主の招きに応じた人”として歩んだ。

彼は、「ぶどう園に行きなさい」という御言葉に従って、

「何もしないで…立っている」人生をやめて、

「ぶどう園」へと歩み出す人生へと、

御言葉によって転換された。

彼は、そのことを自覚的に受けとめ、「ぶどう園」へと歩み出して行く。“私は、「午後五時の労働者」である”、と告白して。

確かに、私は、人生のある一瞬に、キリストと出会う。

私は、今、始めて、主に出会ったと思う。今、はじめてキリストの御言葉を聴いた、と思う。

でも、「家の主人」は、夜明けに、九時に、十二時に、三時に、五時にも、私のところに来られ、私に声を掛けてくださる。「ぶどう園に行きなさい」、私との「約束」に生きなさい、と。私がその声に聴き従うまでは、何度でも、私のために来てくださる。「何もしないで…立っている」生き方をやめて、私との「約束」の内を歩み出しなさい、と。

「家の主人」である神さまの呼びかけに応える、ということは、今、「立っている」、この場所を去る、ということ。

「何もしないで」も「立って」いられる、この安定をやめる、ということ。

安穏とした生活、神さまを必要としない生活から、神さまとの「約束」だけが頼りの歩みへと人生を大きく変えられる、ということ。それが、「天の国」の到来ということ。それが、到来している「天の国」に向かって歩み出すこと。そのように、「家の主人」は、私を招く。

そう、私は、いつでも、キリストから語りかけていただいている。

人生の始まりから、今、そして、終わりに至るまで。ずっと。(以下次回)