余yoteki滴 説教の前の前、あるいはもっと前 「ヨセフは眠りから覚めると」

マタイによる福音書1章18-25節

(2017/12/8 保護者の会クリスマス礼拝のために)

 

ひそかに縁を切ろうと決心した(19節)

 

ヨセフは、袋小路にいる。

誰にも相談できない。

ヨセフは「マリアのことを表ざたにするのを望まず」(19節)にいる。自分ひとりの心の中に全てを飲み込もうとしている。

でも、問題が大きすぎて、ヨセフは「決心」してもなお「このように考えている」。

心は揺れる。

おだやかではないヨセフの眠りは、浅い。

 

身ごもっていることが明らかになった(18節)

 

マリアの懐胎は、既に「明らかになっ」ている、とマタイによる福音書は記す。

ヨセフが知った時、この事実は、もはや「明らかになっ」ている。

“不思議な出来事だ”と、話しに尾ひれがついてユダヤ中をゴシップが駆け巡っている、ということ、

ではない。

神が、一人の女の子を通してこの時代に介入なさる、のだということが「明らかになっ」ているのだ、と福音書は宣言する。

そして神が歴史に介在なさろうする時、人は無力。

だから、ヨセフは「ひそかに縁を切ろう」と「決心」する。

でも、ヨセフの思考は揺れ、「このように考えている」ままに、眠る。

 

主の天使が夢に現れて(20節)

 

すると、ヨセフの眠りに天使があらわれる。

「ヨセフ」とは、夢見る人。彼の遠い先祖も夢見る人(たとえば、創世記40章)。

彼は、夢の中で語りかけて来た相手のことを、「主の天使」であると知っている。「聖霊によって身ごもった」という不可解で、人の手に余る出来事のゆえに、ヨセフは、孤独のうちに苦悩してきた。でも、聖霊によるという事実が「明らか」であるがゆえに、ヨセフは、神の助けを信じている。

だから、語りかけて来た相手を疑わない。「主の天使」であることを疑わない。

 

ヨセフは眠りから覚めると(24節)

 

ヨセフは、神の決定の前に身を置く。「主の天使が命じたとおり」に生きようとする。

彼は、そのことを不条理とは思わない。否、マタイによる福音書を残した信仰共同体が、不条理だとは思わない、というべきか。

ヨセフによって示される信仰者の姿勢は、神の絶対的な支配への信頼。

神がなさることに、信仰者として、どのように参与して行くことが出来るのか、ということを祈り求めることこそが、神への信頼。

それ故、福音書は、“ヨセフを”、私たちに示す。

神の御旨を生きる人として。マタイによる福音書を残した信仰共同体の、信仰に生きる生き方の模範として。

余yoteki滴 説教の前の前、あるいはもっと前「神のものは神に」

マタイによる福音書22章15-22節

2017/10/22(三位一体後第19主日に)

 

それから、ファリサイ派の人々は出て行って、(15節)

 

彼らは、キリストの前から立ち去る。“出て行った”先はどこなのだろうか。

キリストの前を離れて、私たちはどこへ、“出て行く”のか。

“私はキリストの前から離れない”、などとは言えない。

私の心は、いつでもキリストの前から離れて、自分の思いへと向かって行く。私はそのようなものに過ぎないから。

 

キリストから遠く離れて

 

彼らが、キリストから遠く離れて企むのは、キリストの「言葉じりをとらえ」ること。

キリストに敵対するものが、キリストを信じるものよりも、深くキリストの御言葉を聴こうとするのは不思議、

ではない。むしろ、

敵対し、「言葉じりをとらえ」ようとする熱意のゆえに、彼らは真理を聴くものになる。

だから忘れてはならない、私が漫然とキリストの前に居るつもりになっているその時に、キリストに敵対するものは、私などよりもはるかに深い聴き手である、ということを。

 

先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。(16節)

 

彼らは、キリストというお方を理解している。

マタイによる福音書は、警告する。

いつの時代でも、キリストに敵対するものたちは、“真理を語って”キリストに対抗するのだ、ということを。

 

ところで(17節)

 

彼らは本題に入る。

 

お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか(17節)

 

覚えておかなければならないのは、彼らは税金を納めている立場。

ローマ帝国の秩序、治安、統治、覇権、安定、政策というものを、(必要悪であると捉えているかどうかは別にして、)是認する立場。

貧しさの中から、辛苦して税金を納めているのではない。

自己の状況を、ローマ帝国という地上の権威が、その支配が保証するということを“よし”としている。

だから、

彼らの中では、メシアを待つユダヤ教徒としてのありようと、ローマ帝国の(市民権の保持とは関係がなく)「臣民」ということとは矛盾しない。併置し、聖と俗とを切り替えるように、応変できる。

でも、

イエスが「教えくださ」るのはそういう生き方ではない。

イエスが「教えくださ」るのは、

キリストが来られた、ということを知って生きるということは、聖と俗とを使い分ける技巧を、知恵として誇る生き方ではない。

キリストが来られた、と知ったものは、キリストの内に生きる。

 

税金に納めるお金を見せなさい(19節)

 

キリストは、彼らに言われる。

今ここに、この神殿の境内というこの場所に、「税金に納めるお金を」持って来なさいと。

彼らは顔をしかめて舌打ちする。

この人は、聖なる神殿のうちに居られながら、その場所に、デナリオン貨を持ってこいと言われるのか、と。

聖なる場所には聖なる貨幣がある。

この神殿は、世俗の権威であるローマ帝国のただ中にあって、孤島のように独坐する聖なる領域。世俗の権威に対抗する唯一の場所。

そこに、

世俗の支配の象徴であるデナリオン貨を持ち込もうとするのは、聖と俗とをはっきりと遮断してこそ保持できる区別をあいまいにする。

彼らは嫌悪を示す。

でも、イエスは、要求される。「税金に納めるお金を見せなさい」と。

今や、キリストは来られ、聖と俗とを儀礼的に遮断する必要は終わった、とイエスは言われる。

キリストの権威が既にこの世の中に光としてある以上、神殿にデナリオン貨を持ち込んではいけない、という禁忌は意味を持たない。

むしろ、神殿が聖域なのではなく、

キリスト御自身がまことの権威としてお立ちになっておられる“そこ”が、“そこ”こそが聖別された所、神殿となる。

 

デナリオン銀貨を持って来る(19節)

 

だから、マタイによる福音書は、ごく当たり前の事のように、何か、財布から取り出すかのような気楽さで、「デナリオン銀貨を持って来ると」と、記すが、この一文にこそ、キリストの全能の権威が示される。

彼らは、“見せなさい”と命じられるキリスト権威に抵抗できない。

キリストが“見せてごらん”、と私に語られる時、

私は、

自分の手が握りしめているものを、

手をゆっくりと開いてキリストに見せる。

私は、

いつでも、キリストに見せたくないものを、手の内に、心の内に、抱え込んでいる。

 

キリストの前から「出て行」(15節)こうとする

 

そして私は、

いつでも、キリストの前から「出て行」こうとする。だから、

私は、

いつでも、キリストの前か「出て行」こうとする私と、キリストの前に留まろうとする私との間で、軋む。そう、キリストの権威の前で、“すべてはあなたのものです”、と私が全身で告白することを、いつでも主は、待っておられる。

 

「これは、だれの肖像と銘か」(20節)

 

私が、神のものでありながら、この世のものでもあろうとする時、私が頼るのは、この世の「肖像と銘」。

「ハイデルベルク信仰問答」は問94の答でこう教えてくれる。

「わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために、あらゆる偶像崇拝、魔術、迷信的な教え、…を避けて逃れるべきこと」。

 

この世の権威は、経済、繁栄、優位、情報を保証してくれる。

しかしそれは、偶像崇拝。

私はいつでもそれらから全力で「避けて逃れ」なければならない。キリストのもとへ。

 

皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい(21節)

 

マタイによる福音書21章23節において、祭司長や民の長老たちが、「何の権威で」と問うた。

その結果、キリスト御自身が権威であるということが明示された。

キリストのご支配の中にあって、キリスト以外の全ての「肖像と銘」は、その権威を失う。

それ故、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」とイエスが言われる時、それは、私の持っているものの何分の一かを神に返すこと、ではない。キリストの権威の前では、私の全てが「神のもの」なのであり、私という存在そのものが「神のもの」なのだから。

私が抱えているものがデナリオン貨であろうと、偶像崇拝へと傾いてしまう弱さであろうと、キリストは、私に、

“さあ、手をひらいて、あなたが手のうちで必死に握りつぶそうとしているものをみせてごらん”、と語りかけてください。

“見せてごらん。あなたの弱さをも、恥をも、見せてごらん。そのすべてを私に差し出してごらん”。

キリストは私に、語ってくださる。

 

彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った(22節)

 

キリストは、敵対するものたちをも招かれる。彼らに、「持って来」なさいと命じられる。自分を、

ありのままの私を、キリストの目の前に「持って来」なさい、と言われる。

私も、

手の中、心の内に、握っているものを持ってキリストの前に立つ。

でも、

イエスが私に「神のものは神に返しなさい」、あなた自身、あなたの全ては「神のもの」なのだからあなた自身を「神に返しなさい」と言われる時、私は、その御言葉の絶対性のゆえに、

揺らぐ。怯む。

そして、

せっかくありのままの自分を、「持って来」たのに、

せっかくキリストの前に至ったのに、

せっかくキリストからあなた自身を「神に返しなさい」と言っていただいたのに、私は、

躊躇する。

 

マタイによる福音書を残した信仰共同体は、キリストの絶対的な宣言の前に立つことが畏怖すべき事だと知っている。

ここまで来たのに!

キリストの御言葉の前に至ったのに!

差し出せない弱さを、私たちが生きていることを承知している。

「聞いて驚き」はしても、「イエスをその場に残して立ち去」るだけで終わる弱さを、福音書は、知っている。

「神に返し」つくして生きることの難しさを知っている。

そして私も、「立ち去」ることしか出来ないもの。

 

であったとしても、私は、「神のものは神に返しなさい」というキリストの御声を聴いたものとして、歩み出す。

もう、決して、それ以前の聴いたことがない自分へは後戻りできない。

そして主は、

“キリストの恵みの内に、キリスト共に歩み出しなさい、さあ、もう一度、今度こそは「立ち去」らずに”、と、

何度でも私に語りかけてくださる。

余 yoteki 滴  2017年12月3日

「もし、お前が正しいのなら」(創世記4章7節)

「カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た」(3節)。でも、神はカインをかえりみない。そして神は、カインにこう言われる。

「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」(6-7節)。

私には、この神さまの言葉が判らない。

と言うよりも、キライ。

“正しい”と、私が思っていても、顔を上げることができないことは、ある。というよりも、その方が多い。

怒りがある時に、顔を伏せて、その怒りを自分の内に堆積させることもある。というよりも、その方が多い。

怒りで奥歯を噛み砕く事もあるし、怒髪天をつく事もあるし、中国の故事(だったと思うけれども)で言うのであれば、怒りの内に叩頭して、ついに額を打ち割って死んでしまうことも、ある、と思う。

神はそういう人の思いを理解してくださらないのか。私は、いつでもカイン。

神の前に顔を伏せるしかない、そういう自分を持て余すカイン。

神は、なぜ顔を伏せて怒りを鎮めようとするカインの“気持ち”を聞いてくれないのか。

神とは、そのように私に、カインに、寄り添う方では決してない、ということなのか。

怒りは、顔を伏せさせる、と私は思う。主の“正しさ”を尋ねる怒りは、いつでも私の顔を伏せさせる。

怒りは、悲しみと「双子」。

怒りの半分は、悲しさ。

だから私は、主の前に顔を伏せる。そしてカインを思い出す。「カインは激しく怒って顔を伏せた」(5節)と聖書は記すが、カインの「激しい怒り」は、「双子」の「悲しみ」を伴ってカインの心中に発している。そして、「怒り」と「悲しみ」という「双子」は、「絶望」という「卵」を温めている。心の内に、「絶望」が孵った時、カインは、「兄弟」アベルを殺す。自分の心を切り裂く。

神はそのようにカインを追い込まれる。

私はそういう神さまがキライ。

追い込まれ、心の内に「絶望」を孵化させてしまうカインに、私に、私は肩を落とす。私は神さまのなさりようが判らず、神の前に空回りする。

さて、この聖句は11月28日のローズンゲン。私は、この気持ちを持て余しつつ週日を過ごしていた。

というのも、私はその前日(11/27)、福島の白河教会で葬儀に列していた。67歳で地上の生涯を終え、主の前に帰った牧師の葬送式。

彼は富山の教会に仕えている時に病いを得、不自由な思いをしながら、主が用いてくださる仕方で、教会に仕えて来た。

彼が病いを得た時にも、私は、“主よ、どうしてなのですか”、と主に尋ね、主の前に怒り、顔を伏せた。

彼の召天の報に接した時にも、“主よ、なぜなのですか”、と主に尋ね、主の前に怒り、顔を伏せた。

彼は、19日の主日に、或る教会で説教の奉仕をし、翌日倒れ、22日に帰天した。最後まで主の僕であり続け、神の前に献げものを、実りを、持って来る歩みを続け、そして取り去られた。

木曜日(11/30)のローズンゲンは、出エジプト記33章17節。

『主はモーセに言われた「あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである」』。

私は、“いいかげんにしてくれ”と思う。

モーセにここまで言ってくださるのであれば、カインに、そのほんの少しでも、なぜ、声を掛けてくださらないのか。

“主よ、私は至らないものですから、「好意を示し」ていただく程もののではない事は知っています。でも主よ、あなたの選択の基準が私に判りかねます”。

私の心はそう叫ぶ。

叫びつつ、私は『ハイデルベルク信仰問答』をめくっている。

『ハイデルベルク信仰問答』問127(問「第六の願いは何ですか」)の答は次のとおり。

「われらをこころみにあわせず、

悪より救い出したまえ」です。

すなわち、

わたしたちは自分自身あまりに弱く、

ほんの一時(ひととき)立っていることさえできません。

その上わたしたちの恐ろしい敵である

悪魔やこの世、また自分自身の肉が、

絶え間なく攻撃をしかけてまいります。

ですから、どうかあなたの聖霊の力によって、

わたしたちを保ち、強めてくださり、

わたしたちがそれらに激しく抵抗し、

この霊の戦いに敗れることなく、

ついには完全な勝利を収められるようにしてください、

ということです。

(『ハイデルベルク信仰問答』吉田隆、訳、新教出版社)

カインが心の内に「絶望」を羽化させてしまったように、私も、心の内に「神への懐疑」を育てている。この卵は、「怒り」と「悲しみ」という「双子」があたためていたもの。私の心は、カインの心は、その揺籃になる。

そして、それは500年前に、『ハイデルベルク信仰問答』を残した人々も同じ。

彼らは、戦乱、凶作、飢餓、疫病、不信、振りかざされる正義、の只中で、カインの心を抱えている。自分自身の内側に「恐ろしい敵」を抱えている。だから、カインの心と同じにならないために「激しく抵抗」する道を選ぶ。

確かにそれはりっぱ。

でも私は、その“健全さ”にもうんざりする。私はそんなに健康ではない。

怒りの中で、奥歯を食いしばってそれに耐えることは出来ても、「激しく抵抗」して「ついには完全な勝利を収められるように」と祈る健康さを、私は、生きてはいない。

だから私は、『ハイデルベルク信仰問答』のこの答えに感銘を受けつつも、その祈りの深さに驚嘆しつつも、私はその前に立ち止まるしかない自分を生きる。

神の遠さを思い、カインである私は、でも私が「兄弟」を殺さない生き方をするには、私は神に何を願って行けばいいのかと尋ねるために、私は、歩んで行く。

キライな神さまに尋ねるために歩んで行く。この一週間もそうであったように、これからも。

キライな神さまの前を、行きつ戻りつしつつ、歩んで行く。

先に御国へと帰った同期の教師の、神の前での柔らかな歩みを思い起こしつつ。

余yoteki滴 終末節黙想

「自分の財産」 マタイによる福音書25章14節

(2017/11/19 終末前主日に)

 

14自分の財産を預けた

 

キリストは、天の国は、私たちに神が「己が所有(もちもの)を預くるが如し」、と言われる。

神は、私に預けてくださる。御自身のものを。

「預かる」というと、何か消極的な印象。でもこの字は、「委ねる」、「託す」とも言い得る。

私たちに、キリストは託してくださる、委(まか)せてくださる、御自身の所有(もちもの)を。

 

16五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンもうけた。

 

「商売」と新共同訳は翻訳している。が、この語は、「働かす」という意味。「商売」というよりも貨幣を働かせる(という意味での)「投資」とか「運用」というニュアンス。文語訳は、「五タラントを受けし者、は直(ただ)ちに往(ゆ)き、之(これ)をはたらかせて、他に五タラントを贏(もう)け」と「はたらかせて」と訳している。資産運用と言うべきか。

 

で、文語訳は「儲ける」というところに、「贏(もう)ける」という漢字をあてている。中国の古い字書である「説文解字」では、この「贏(エイ)」という字を、「有餘、賈利也。从貝エイ(「贏」という字の下の月と卂(あるいは凡)の間が貝ではなく女)聲」と説明している。よって白川静は、「貝を財利の意と解するものであろう」と説明する(「字通」)。つまり、「贏」という字には、賈しての余利、余剰、利ざやという意味が強い、ということ。

 

16ほかに五タラントンもうけた。

 

あるいは、私たちは、発想を転換して次のように考えた方がいいのかも知れない。

神が、御自身の所有(もちもの)を預け、託して行かれるのが、「天の国」なのだとすると、神から託されたもので「もうける」ということが推奨されているのでは、ない、ということ。

神の「所有(もちもの)から利ざやを得るなどということよりも、神から託された「タラント」を、恵みを、祝福を、5タラントンもの大量の賜り物を、余さず人のために用いることこそが、求められているのではないか、と。

もちろん彼らは「宜(よ)いかな、善(ぜん)かつ忠(ちゅう)なる僕(しもべ)」と言われる。でも、本当に神の所有(もちもの)に対して忠実な良い僕は、託されたもので余剰を得るのではなく、ましてや、「汝(なんじ)のタラントを地(ち)に藏(かく)しおけり」とするあり方でもなく、主人が帰ってきた時に、

“託されたあなたのタラントは、ご覧ください、他者のためにきれいに使い尽くしました”、

ということができる歩みなのではないだろうか。