余 yoteki 滴  2017年12月3日

「もし、お前が正しいのなら」(創世記4章7節)

「カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た」(3節)。でも、神はカインをかえりみない。そして神は、カインにこう言われる。

「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」(6-7節)。

私には、この神さまの言葉が判らない。

と言うよりも、キライ。

“正しい”と、私が思っていても、顔を上げることができないことは、ある。というよりも、その方が多い。

怒りがある時に、顔を伏せて、その怒りを自分の内に堆積させることもある。というよりも、その方が多い。

怒りで奥歯を噛み砕く事もあるし、怒髪天をつく事もあるし、中国の故事(だったと思うけれども)で言うのであれば、怒りの内に叩頭して、ついに額を打ち割って死んでしまうことも、ある、と思う。

神はそういう人の思いを理解してくださらないのか。私は、いつでもカイン。

神の前に顔を伏せるしかない、そういう自分を持て余すカイン。

神は、なぜ顔を伏せて怒りを鎮めようとするカインの“気持ち”を聞いてくれないのか。

神とは、そのように私に、カインに、寄り添う方では決してない、ということなのか。

怒りは、顔を伏せさせる、と私は思う。主の“正しさ”を尋ねる怒りは、いつでも私の顔を伏せさせる。

怒りは、悲しみと「双子」。

怒りの半分は、悲しさ。

だから私は、主の前に顔を伏せる。そしてカインを思い出す。「カインは激しく怒って顔を伏せた」(5節)と聖書は記すが、カインの「激しい怒り」は、「双子」の「悲しみ」を伴ってカインの心中に発している。そして、「怒り」と「悲しみ」という「双子」は、「絶望」という「卵」を温めている。心の内に、「絶望」が孵った時、カインは、「兄弟」アベルを殺す。自分の心を切り裂く。

神はそのようにカインを追い込まれる。

私はそういう神さまがキライ。

追い込まれ、心の内に「絶望」を孵化させてしまうカインに、私に、私は肩を落とす。私は神さまのなさりようが判らず、神の前に空回りする。

さて、この聖句は11月28日のローズンゲン。私は、この気持ちを持て余しつつ週日を過ごしていた。

というのも、私はその前日(11/27)、福島の白河教会で葬儀に列していた。67歳で地上の生涯を終え、主の前に帰った牧師の葬送式。

彼は富山の教会に仕えている時に病いを得、不自由な思いをしながら、主が用いてくださる仕方で、教会に仕えて来た。

彼が病いを得た時にも、私は、“主よ、どうしてなのですか”、と主に尋ね、主の前に怒り、顔を伏せた。

彼の召天の報に接した時にも、“主よ、なぜなのですか”、と主に尋ね、主の前に怒り、顔を伏せた。

彼は、19日の主日に、或る教会で説教の奉仕をし、翌日倒れ、22日に帰天した。最後まで主の僕であり続け、神の前に献げものを、実りを、持って来る歩みを続け、そして取り去られた。

木曜日(11/30)のローズンゲンは、出エジプト記33章17節。

『主はモーセに言われた「あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである」』。

私は、“いいかげんにしてくれ”と思う。

モーセにここまで言ってくださるのであれば、カインに、そのほんの少しでも、なぜ、声を掛けてくださらないのか。

“主よ、私は至らないものですから、「好意を示し」ていただく程もののではない事は知っています。でも主よ、あなたの選択の基準が私に判りかねます”。

私の心はそう叫ぶ。

叫びつつ、私は『ハイデルベルク信仰問答』をめくっている。

『ハイデルベルク信仰問答』問127(問「第六の願いは何ですか」)の答は次のとおり。

「われらをこころみにあわせず、

悪より救い出したまえ」です。

すなわち、

わたしたちは自分自身あまりに弱く、

ほんの一時(ひととき)立っていることさえできません。

その上わたしたちの恐ろしい敵である

悪魔やこの世、また自分自身の肉が、

絶え間なく攻撃をしかけてまいります。

ですから、どうかあなたの聖霊の力によって、

わたしたちを保ち、強めてくださり、

わたしたちがそれらに激しく抵抗し、

この霊の戦いに敗れることなく、

ついには完全な勝利を収められるようにしてください、

ということです。

(『ハイデルベルク信仰問答』吉田隆、訳、新教出版社)

カインが心の内に「絶望」を羽化させてしまったように、私も、心の内に「神への懐疑」を育てている。この卵は、「怒り」と「悲しみ」という「双子」があたためていたもの。私の心は、カインの心は、その揺籃になる。

そして、それは500年前に、『ハイデルベルク信仰問答』を残した人々も同じ。

彼らは、戦乱、凶作、飢餓、疫病、不信、振りかざされる正義、の只中で、カインの心を抱えている。自分自身の内側に「恐ろしい敵」を抱えている。だから、カインの心と同じにならないために「激しく抵抗」する道を選ぶ。

確かにそれはりっぱ。

でも私は、その“健全さ”にもうんざりする。私はそんなに健康ではない。

怒りの中で、奥歯を食いしばってそれに耐えることは出来ても、「激しく抵抗」して「ついには完全な勝利を収められるように」と祈る健康さを、私は、生きてはいない。

だから私は、『ハイデルベルク信仰問答』のこの答えに感銘を受けつつも、その祈りの深さに驚嘆しつつも、私はその前に立ち止まるしかない自分を生きる。

神の遠さを思い、カインである私は、でも私が「兄弟」を殺さない生き方をするには、私は神に何を願って行けばいいのかと尋ねるために、私は、歩んで行く。

キライな神さまに尋ねるために歩んで行く。この一週間もそうであったように、これからも。

キライな神さまの前を、行きつ戻りつしつつ、歩んで行く。

先に御国へと帰った同期の教師の、神の前での柔らかな歩みを思い起こしつつ。

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