マタイによる福音書22章15-22節
2017/10/22(三位一体後第19主日に)
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それから、ファリサイ派の人々は出て行って、(15節)
彼らは、キリストの前から立ち去る。“出て行った”先はどこなのだろうか。
キリストの前を離れて、私たちはどこへ、“出て行く”のか。
“私はキリストの前から離れない”、などとは言えない。
私の心は、いつでもキリストの前から離れて、自分の思いへと向かって行く。私はそのようなものに過ぎないから。
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キリストから遠く離れて
彼らが、キリストから遠く離れて企むのは、キリストの「言葉じりをとらえ」ること。
キリストに敵対するものが、キリストを信じるものよりも、深くキリストの御言葉を聴こうとするのは不思議、
ではない。むしろ、
敵対し、「言葉じりをとらえ」ようとする熱意のゆえに、彼らは真理を聴くものになる。
だから忘れてはならない、私が漫然とキリストの前に居るつもりになっているその時に、キリストに敵対するものは、私などよりもはるかに深い聴き手である、ということを。
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先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。(16節)
彼らは、キリストというお方を理解している。
マタイによる福音書は、警告する。
いつの時代でも、キリストに敵対するものたちは、“真理を語って”キリストに対抗するのだ、ということを。
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ところで(17節)
彼らは本題に入る。
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お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか(17節)
覚えておかなければならないのは、彼らは税金を納めている立場。
ローマ帝国の秩序、治安、統治、覇権、安定、政策というものを、(必要悪であると捉えているかどうかは別にして、)是認する立場。
貧しさの中から、辛苦して税金を納めているのではない。
自己の状況を、ローマ帝国という地上の権威が、その支配が保証するということを“よし”としている。
だから、
彼らの中では、メシアを待つユダヤ教徒としてのありようと、ローマ帝国の(市民権の保持とは関係がなく)「臣民」ということとは矛盾しない。併置し、聖と俗とを切り替えるように、応変できる。
でも、
イエスが「教えくださ」るのはそういう生き方ではない。
イエスが「教えくださ」るのは、
キリストが来られた、ということを知って生きるということは、聖と俗とを使い分ける技巧を、知恵として誇る生き方ではない。
キリストが来られた、と知ったものは、キリストの内に生きる。
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税金に納めるお金を見せなさい(19節)
キリストは、彼らに言われる。
今ここに、この神殿の境内というこの場所に、「税金に納めるお金を」持って来なさいと。
彼らは顔をしかめて舌打ちする。
この人は、聖なる神殿のうちに居られながら、その場所に、デナリオン貨を持ってこいと言われるのか、と。
聖なる場所には聖なる貨幣がある。
この神殿は、世俗の権威であるローマ帝国のただ中にあって、孤島のように独坐する聖なる領域。世俗の権威に対抗する唯一の場所。
そこに、
世俗の支配の象徴であるデナリオン貨を持ち込もうとするのは、聖と俗とをはっきりと遮断してこそ保持できる区別をあいまいにする。
彼らは嫌悪を示す。
でも、イエスは、要求される。「税金に納めるお金を見せなさい」と。
今や、キリストは来られ、聖と俗とを儀礼的に遮断する必要は終わった、とイエスは言われる。
キリストの権威が既にこの世の中に光としてある以上、神殿にデナリオン貨を持ち込んではいけない、という禁忌は意味を持たない。
むしろ、神殿が聖域なのではなく、
キリスト御自身がまことの権威としてお立ちになっておられる“そこ”が、“そこ”こそが聖別された所、神殿となる。
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デナリオン銀貨を持って来る(19節)
だから、マタイによる福音書は、ごく当たり前の事のように、何か、財布から取り出すかのような気楽さで、「デナリオン銀貨を持って来ると」と、記すが、この一文にこそ、キリストの全能の権威が示される。
彼らは、“見せなさい”と命じられるキリスト権威に抵抗できない。
キリストが“見せてごらん”、と私に語られる時、
私は、
自分の手が握りしめているものを、
手をゆっくりと開いてキリストに見せる。
私は、
いつでも、キリストに見せたくないものを、手の内に、心の内に、抱え込んでいる。
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キリストの前から「出て行」(15節)こうとする
そして私は、
いつでも、キリストの前から「出て行」こうとする。だから、
私は、
いつでも、キリストの前か「出て行」こうとする私と、キリストの前に留まろうとする私との間で、軋む。そう、キリストの権威の前で、“すべてはあなたのものです”、と私が全身で告白することを、いつでも主は、待っておられる。
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「これは、だれの肖像と銘か」(20節)
私が、神のものでありながら、この世のものでもあろうとする時、私が頼るのは、この世の「肖像と銘」。
「ハイデルベルク信仰問答」は問94の答でこう教えてくれる。
「わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために、あらゆる偶像崇拝、魔術、迷信的な教え、…を避けて逃れるべきこと」。
この世の権威は、経済、繁栄、優位、情報を保証してくれる。
しかしそれは、偶像崇拝。
私はいつでもそれらから全力で「避けて逃れ」なければならない。キリストのもとへ。
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皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい(21節)
マタイによる福音書21章23節において、祭司長や民の長老たちが、「何の権威で」と問うた。
その結果、キリスト御自身が権威であるということが明示された。
キリストのご支配の中にあって、キリスト以外の全ての「肖像と銘」は、その権威を失う。
それ故、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」とイエスが言われる時、それは、私の持っているものの何分の一かを神に返すこと、ではない。キリストの権威の前では、私の全てが「神のもの」なのであり、私という存在そのものが「神のもの」なのだから。
私が抱えているものがデナリオン貨であろうと、偶像崇拝へと傾いてしまう弱さであろうと、キリストは、私に、
“さあ、手をひらいて、あなたが手のうちで必死に握りつぶそうとしているものをみせてごらん”、と語りかけてください。
“見せてごらん。あなたの弱さをも、恥をも、見せてごらん。そのすべてを私に差し出してごらん”。
キリストは私に、語ってくださる。
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彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った(22節)
キリストは、敵対するものたちをも招かれる。彼らに、「持って来」なさいと命じられる。自分を、
ありのままの私を、キリストの目の前に「持って来」なさい、と言われる。
私も、
手の中、心の内に、握っているものを持ってキリストの前に立つ。
でも、
イエスが私に「神のものは神に返しなさい」、あなた自身、あなたの全ては「神のもの」なのだからあなた自身を「神に返しなさい」と言われる時、私は、その御言葉の絶対性のゆえに、
揺らぐ。怯む。
そして、
せっかくありのままの自分を、「持って来」たのに、
せっかくキリストの前に至ったのに、
せっかくキリストからあなた自身を「神に返しなさい」と言っていただいたのに、私は、
躊躇する。
マタイによる福音書を残した信仰共同体は、キリストの絶対的な宣言の前に立つことが畏怖すべき事だと知っている。
ここまで来たのに!
キリストの御言葉の前に至ったのに!
差し出せない弱さを、私たちが生きていることを承知している。
「聞いて驚き」はしても、「イエスをその場に残して立ち去」るだけで終わる弱さを、福音書は、知っている。
「神に返し」つくして生きることの難しさを知っている。
そして私も、「立ち去」ることしか出来ないもの。
であったとしても、私は、「神のものは神に返しなさい」というキリストの御声を聴いたものとして、歩み出す。
もう、決して、それ以前の聴いたことがない自分へは後戻りできない。
そして主は、
“キリストの恵みの内に、キリスト共に歩み出しなさい、さあ、もう一度、今度こそは「立ち去」らずに”、と、
何度でも私に語りかけてくださる。