【 余yoteki滴 】
「床を担いで歩きなさい」
(ヨハネによる福音書 5 章 1 – 18 節)
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キリストと出会う人は、「38年も病気で苦しんでいる人」(5節)と紹介される。
ヨハネ福音書は、彼が「38年も」ベトサダの池の畔にいた、とは書かない。彼についてヨハネが知っているのは、ただ「38年も病気で苦しんでい」た、ということ。
だから、どういう経緯があって、いつ頃から、彼が、ベトサダの池の畔にいることになったのかは、もはや判らない。
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彼には頼るべき人は、誰もいない。
だから彼は、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」(7節)という。
彼には、介護するものも、介助するものもいない。それが「38年」、という年月なのだ、とヨハネは私たちに告げる。
いわゆる「長血の女」が、「財産を使い果たし」、今や、供もなく、たった一人でイエスに後ろから近づくように(マルコによる福音書5章25節以下)、彼はただ一人、ベトサダの池の畔にある。
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キリストは、この「38年も病気で苦しんでいる人」に、「良くなりたいか」と問われる。
実は、私は、この「お話し」が嫌い(よく考えてみると、福音書の中の「お話し」は、嫌いなものばかりだ)。特に、イエスさまが、「良くなりたいか」(6節)とお尋ねになるこの個所が嫌い。
「健(すこやか)にならんことを欲するや」(永井直治訳「新契約聖書」)との言葉をイエスさまの口の中に入れる、ヨハネによる福音書を残した信仰共同体が持っている、“病気は治った方がいい”、という思想が嫌い。「病気」はそんなに簡単に治らない。そう、昔も今も。
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「病気」は、私の一部。というよりも「病気」である私が、私。
付言しておくが、私は、病気である状況を達観しなければならない、と言っているわけでも、思っているわけでもない。病気の進行を止められないのは、もどかしいし、進んで行く状況を納得するのは本当に難しい。
それでも、「なんぢ癒えんことを願うか」(文語訳)という発想のうちにある健康至上主義が、私は嫌い。
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「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(8節)とキリストは命じられる。
ヨハネ福音書研究の先生方がどうおっしゃるのか、私には判らないが、キリストは、この人に確かにこう言われたのだと思う。イエスは、「38年も」病いと共にある人に、「よくなりたいか」などとは言われない。自明のことだし、無神経でもある、そのようなことを。
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キリストの言葉は、むしろもっと直接。キリストは、私に、「起きよ、汝の床を取り上げよ、且つ歩め」(永井訳)、そう言われる。
キリストが私に命じられるのは、「起きよ」ということ。健(すこやか)になったからなのではない、癒やされたから歩みだせ、というのではない。
キリストは、私に、あなたのそのままで、今のままのあなたのままで、「起きよ」とお命じになる。
変化は、病状や体調ではない。
変化は、キリストの命令を聞いて、それを行う、ということ。
ぶざまな、不甲斐ない、劣悪になりつつある状況のままで、「起きよ」との御言葉に従う、ということ。
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彼は歩き出す。
「この人はすぐに良くなっ」たとヨハネは記す。何度も言うが、「良くなる」ことが歩き出すことの前提だと思っているヨハネ福音書が、私は嫌い。そういう「健康な発想」が、私は嫌い。
ところで、どうも、6月中のあれこれの疲れが、どっと来て(教区総会もあって、慣れない“仕事”をしたので。“仕事”がちゃんと出来るようなら、牧師にはなってはいない。あっ、これは私の場合であって、世の中の牧師先生方は違います。念のため)、こりゃあ、ちっと休まないと無理かな、と思っていたら、どうしても幼稚園に顔を出さなければならなくなって、「お預り」で残っていた子たちと折り紙をして遊んでしまった。そうしたら、治りかけていた気管支炎の上に、彼ら彼女らから鼻が出る風邪までちゃんといただくこととなってしまった。
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確かに私も生まれた時からの病いを抱えてはいるが、でも、「38年」も病いと共にあるこの男性と私は、全然違う。彼の苦しみを、私は十全に理解することができないし、彼の悲しみを言い表す言葉を持ってはいない。
私がわかるのは、この人は、歩き出したのだ、ということ。彼は歩き出す。「床を担いで歩きだした」。
彼は、どこに向かって「歩きだした」のだろうか。「長血の女」に、もはや財産も家も家僕もないように、この人にも、家も、友も、帰るべき処も、もはやない。彼は行くべき目的地を思いつかない。そして、彼にあるのは、「床」だけ。
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彼に命じられているのは、彼が持っているものの全てである「床」を担いで歩み出せ、ということ。彼が抱えている病いを、そのまま傍らに抱きかかえたままで、歩みだしなさい、ということ。それでは、彼は、“どこに”、向かって歩み出すのか。
彼は、ヤケになって歩く。「ユダヤ人たち」と接触し、自分がどうして歩いているのか、その意味を考えさせられる。そして彼は、自分が歩み出すきっかけになったその人を知らない、と気づく。「だれであるか知らなかった」(13節)。
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知らないのだ。私たちは。
キリストに出会っている、ということを知らないのだ、私たちは。
床を担いで、ベトサダの池(つまり自分を健康にしてくれる「何か」)と決別して、“どこか”に向かって歩みだしたのに、私がそのように始めたのは、自分で決断したからだと思っているので、「その人」に依拠した結果なのだ、と気づくことができないのだ、私たちは。
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彼は、“どこに”、行くのか。
彼は、キリストを求める歩みへと踏み出して行く。
彼は、同胞である「ユダヤ人たち」がキリストを知らない、ということを見極める。「律法」は、自分が行く“どこか”ではない、と気づく。
彼は、キリストと出会うまで歩む。そして神殿で出会う。正確には、キリストは彼を見つけてくださる。「イエスは、神殿の境内でこの人に出会って」くださる(14節)。
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そして、彼の生き方が変わる。
彼は「この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた」(15節)。
彼には、今や、“どこに”行くのか知っている。
彼が行くのは、「自分をいやしたのはイエスだ」と知らせるため。
その知らせを必要としている“どこか”に向かって歩みだす。
そのために、今いる場所を「立ち去って」行く人へと変えられる。
彼は、自分の床を担いだまま、変えられる。彼は、私が床を担いで歩いているのは、私を癒してくれたのはイエスだ、と告げ知らせるためなのだ、と語る人へと変えられる。
そして私は、床を担いで歩く勇気もなく、園児たちにいただいた「風邪」を持て余して布団に入り、体温計がピピッと鳴るのを待っている。