【 余 yoteki 滴 】

主よ、わたしから離れてください。

(ルカによる福音書 5 章 8 節)

 

2019年9月のキ保連(「キリスト教保育連盟」)の主題聖句は、ルカによる福音書5:1-11の、いわゆる「弟子の召命」の記事からです。

 

イエスさまは、「ゲネサレト湖畔に立って」おられます(1節)。

そのイエスさまのところに、神の言葉を聞こうとして群衆が押し寄せてきます。

イエスさまは、湖畔から、じりじりと、水面の方に追いやられてしまいます。

そして、イエスさまは、「二そうの舟が岸にあるのを御覧にな」ります。

不思議ですが、まず目を留められるのは「舟」でした。それから、この「舟」の関係者がイエスさまの目に飛び込んできます。「漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた」(2節)。

 

彼ら、漁師たちにとって、「舟」は、生活の根幹です。

その「舟」に、3節ではイエスさまは勝手にお乗りになり、あまつさえ、「岸から少し漕ぎ出す」ように言われます。更に、「腰を下ろして」群衆を教えられたイエスさまは、今度は、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われるのです。

さすがにシモンも、それに対しては、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何も取れませんでした」とまず反論します。

それでもシモンが、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と応じたのは、横でイエスさまのお話しをずっと聞いていて、心に響くものがあったからなのかもしれません(4節)。

 

シモンは、“真っ昼間の漁”をします。

常識的には考えられないことです。

そして、彼らの常識が覆される出来事が起こります。

「おびただしい魚がかかり、網が破れそうに」なったのです(6節)。

彼らは、「もう一そうの舟にいる仲間に合図して」助けてもらうことにします。それでも、大漁過ぎて「舟は沈みそうになった」(7節)、とルカは記します。

なんと、イエスさまを乗せたまま、「舟は沈みそう」なのです。

 

そうなのです。

キリストの弟子となる、ということは、そのような生き方を選び取る、ということは、この世の常識から見たら見当はずれの、そして、イエスさまといっしょに転覆する、そんな「キケン」な、ワクワクするような歩み出しなのだ、ということなのです。

どうです、ちょっとあこがれませんか?

(「園だより」9月号に掲載したものを加筆訂正しています)

余yoteki滴

良い土地に蒔かれたものとは

(マルコによる福音書 4 章 8節)

 

2019年10月のキ保連(「キリスト教保育連盟」)の主題聖句は、「新約聖書」の「マルコによる福音書」からとられています。

イエスさまがなさるたとえ話です。4つの場所に「落ちる」種のお話しです。

そしてイエスさまは、やっと4番目の種が、「良い土地に落ち、芽生え、育って実を結」んだ、とお話しなります(ちなみに、マルコによる福音書4章1節には、イエスさまは、湖のほとりで「たとえでいろいろと教えられ」た、と書かれています。9月も湖のほとりでした。湖畔は教えを聞きうる場所として新約聖書の中ではイメージされていることがわかります)。

また、マルコによる福音書4章13節以下には、イエスさまご自身が、このたとえを「解説」してくださっています。

そこを読んでみますと、「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たち」のことであることがわかります(4章20節)。

つまり「良い土地」とは、御言葉を聞く心の準備ができている、ということを示しているのだ、と思えてしまいます。そして、教会生活を長くしていると、「そうなんだよね、わかる~」、と思ってしまうのです。

でも、本当にそうでしょうか。

イエスさまの「解説」の言葉を、注意深く聞いてみると、イエスさまは「御言葉を聞いて受け入れる人」、とおっしゃっているのであって、〈御言葉を聞いて受け入れる心の準備ができている人〉、と言っておられるのではないのです。

私たちは、聖書の御言葉が「理解」できる、そのような心の準備(あるいは信仰的なトレーニングとか)が必要である、と思ってしまいがちです。

ですが、イエスさまがこのたとえで示しておられるのは、ただ無心に御言葉を聞く、ということなのです。私が、私の頭(のレベル)で理解するのではなく、イエスさまの言葉を、私の心の内にそっと受け取ること、そういう単純素朴なままでの在りようこそが、御言葉を聞く姿勢なのだと言われているのです。

つまり、鎮まって、素朴に、聖書に聞く、というのが一番難しい、ということなのでしょう。

(2019年9月23日幼稚園「園だより」のために)