良い土地に蒔かれたものとは
(マルコによる福音書 4 章 8節)
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2019年10月のキ保連(「キリスト教保育連盟」)の主題聖句は、「新約聖書」の「マルコによる福音書」からとられています。
イエスさまがなさるたとえ話です。4つの場所に「落ちる」種のお話しです。
そしてイエスさまは、やっと4番目の種が、「良い土地に落ち、芽生え、育って実を結」んだ、とお話しなります(ちなみに、マルコによる福音書4章1節には、イエスさまは、湖のほとりで「たとえでいろいろと教えられ」た、と書かれています。9月も湖のほとりでした。湖畔は教えを聞きうる場所として新約聖書の中ではイメージされていることがわかります)。
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また、マルコによる福音書4章13節以下には、イエスさまご自身が、このたとえを「解説」してくださっています。
そこを読んでみますと、「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たち」のことであることがわかります(4章20節)。
つまり「良い土地」とは、御言葉を聞く心の準備ができている、ということを示しているのだ、と思えてしまいます。そして、教会生活を長くしていると、「そうなんだよね、わかる~」、と思ってしまうのです。
でも、本当にそうでしょうか。
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イエスさまの「解説」の言葉を、注意深く聞いてみると、イエスさまは「御言葉を聞いて受け入れる人」、とおっしゃっているのであって、〈御言葉を聞いて受け入れる心の準備ができている人〉、と言っておられるのではないのです。
私たちは、聖書の御言葉が「理解」できる、そのような心の準備(あるいは信仰的なトレーニングとか)が必要である、と思ってしまいがちです。
ですが、イエスさまがこのたとえで示しておられるのは、ただ無心に御言葉を聞く、ということなのです。私が、私の頭(のレベル)で理解するのではなく、イエスさまの言葉を、私の心の内にそっと受け取ること、そういう単純素朴なままでの在りようこそが、御言葉を聞く姿勢なのだと言われているのです。
つまり、鎮まって、素朴に、聖書に聞く、というのが一番難しい、ということなのでしょう。
(2019年9月23日幼稚園「園だより」のために)