余yoteki滴

救い主を探しに

(マタイによる福音書2章1節以下)

「園だより」12月号より

 

キ保連(「キリスト教保育連盟」の略称)の12月の聖句は、マタイによる福音書2章からとられています。この個所は、東方の博士たちが、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」(マタイによる福音書2章2節)を礼拝するためにはるばるやって来たところです。

東方の博士たちは、ただ「星」だけを頼りに、まだ見たことのないイエスさまを尋ねる旅に出ました。もちろん、彼らの行動には、彼らなりの論理がありました。でも、周囲から見れば、それはものすごく無謀なことと映ったことでしょう。遠くユダヤまで? 生涯をかけて? 今での積み上げてきた名声も、権威も投げ捨てて? どうしてそこまでするの? その旅に意味はあるの? そう、周りは思い、博士たちの行動を止めようとしたかもしれません。でも博士たちは、親しい人たちの反対を押し切って、旅に出ました。「星」だけを頼りにして。

ところが博士たちは、ユダヤに入ったあたりで、自分たちを導いてくれていた「星」を見失ってしまいました。そこで、彼らはヘロデの王宮に行き、「王としてお生まれになった方」はどこにおられるのか尋ねることにしました。彼らの決断は勇気のあるものでしたが、同時に、大変危険なものでした。彼らは、現職の王であるヘロデに、地上の権威者であるヘロデに、未来の、そして本当の権威である王はどこにおられるのか、と尋ねたのです。

マタイによる福音書2章は、「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(3節)と記しています。救い主が来られるということが、王を、エルサレムの人々を「不安」にさせる、のです。

東方の博士たちは、キリストのご降誕に出会うために、そしてそのお方を礼拝するために、生涯を傾けて、キリストとの出会いを求めている人たちです。イエスさまに出会う、ということは、私たちの人生が、それまでの私の歩みが、根底から覆って行く、そういう出来事です。クリスマスという出来事に出会うということは、私たちを、今までとは違う生き方へと招くのです。

(「園だより」に服部能幸教師が書いているコラムから。一部修正しています)

(2018/12/16週報掲載)

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