「心に広い道を見ている」
(詩84篇6節)
10月5日のテゼの日課から。
84篇の詩人は、自分の歩いてきた途(みち)のりの、困難であったことを思い出す。それでも詩人は、「主の庭を慕って」(3節)、歩み続けて来た。
この歩みは、聖地への、神殿への、「巡礼」という、実際の「旅」であったのかもしれない。しかしそれ以上に、詩篇の詩人は、地上での歩み、人生そのものこそが、「主の庭を慕」う旅なのだと知っている。
詩人は、地上を歩む時の困難さの只中でこそ、「いかに幸いなことでしょう。あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は」(6節)と祈ることができる、と私に教える。
困難の窮(きわ)みにあるからこそ、依り頼むべき「力は汝(なんじ)にあり」(「あなたによって勇気を出し」の文語訳)と、はっきりと告白することができるのだ、と詩人は、私に告げる。「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう」(7節)と、詠(うた)う交わりに加わりなさい、と詩人は私を誘(いざな)う。
人生の歩みの中で、「嘆きの谷」を歩む時は、苦い、悲しみに満ちた時。そこはあくまでも「涙の谷」(文語訳)。人は、「嘆きの谷」を喜びの場所とは思えない。私は、「涙の谷」を心あたたまる所とは思わない。
しかし、その「嘆きの谷」を、「其處(そこ)をおほくの泉ある處(ところ)となす」(「そこを泉とするでしょう」の文語訳)としてくださる方が、あなたの、私の「力」の源泉(みなもと)なのだ、と詩人はいう。
そして、昨日までの、今、この時までの、常に過去になる歩みを振り返り続ける生き方ではなく、「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」(ペトロの手紙(1)2章21節)との御言葉に確信を持って立つ生き方へ、「心に広い道を見ている」生き方、「その心シオンの大路にあるもの」としての「福(さいは)ひ」(5節の文語訳)な生き方へ、さあ今こそ、と詩人は私に手をさし伸ばす。