終末節の黙想
「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立たなければなりません。」
(コリントの信徒への手紙 (2) 5 章 10 節)
パウロは、その生涯の只中で、人生の方向を決定的に、変えた人。キリストに敵対する者から、キリストに信従する者へと。そして彼は、(人生の終わり“に”、ではなく)人生の終わり“を”思う。自分の来し方を思う。
私も思う。もし、教会に来ることがなかったら、と自分の人生を想像してみる。もし、キリストに出会うことがなかったら、と自分の生涯をイメージしてみる。
御言に生きることなく歩んでいたら、私は、もっと自由だっただろう。キリストに捉えられることがなかったら、私は、もっと幸せだっただろう。イエスの十字架の重みを知らなかったら、私は、もっと快適だっただろう。だって、もっと極楽とんぼに、“いろいろなこと”に片目をつぶりながら、自前勝手に、時代の思想に流されながら、そこそこに、ひらひらと生きた、だろう。もっと気楽に“私の”時間を生きた、だろう。
キリストに出会う、ということは、“私はわたしのものではない”、ということを知ること。“捉えていただいた”という覚悟を生きること。そのことを、『ハイデルベルク信仰問答』問1は、「生きるにも、死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と問う(吉田隆、訳、新教出版社、1997)。
『ハイデルベルク』の信仰を生きた人たちは、“生死を分たず慰めになることなど果たしてあるか、お前に?”、“今、生きている、この時の喜びではなく、かつても、今も、そしてこれからも、永遠にあなたの慰めとなる喜びが、あるか?”、と問い続ける。そして私は、この問いの前に立ち尽くす。
『ハイデルベルク』は、答える。「わたしがわたし自身ものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」と。私は“キリストのもの”であって、何一つとして“私の”ではない。『ハイデルベルク』のこの応答は、パウロが「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立たなければなりません」という宣言への応答。
私は、“キリストのもの”として「私の真実の救い主イエス・キリストのもの」として、キリストの裁きの座の前に、喜んで、立つ。「立たねばなりません」という箇所を、蓮見和男先生は「さばきの座の前に現れ」(「コリント人への第二の手紙」、新教出版社、1998)と訳している。
そう、私たちは、ただ「私の真実の救い主イエス・キリストのもの」とされていることへの感謝のみをもって、主の前に「現れ」ることをこそ、許されてある、と知る。