「ぶどう園に行きなさい」(マタイによる福音書20章7節)(その3)
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私は「家の主人」の声を聞く。風が吹く頃、薄暮の時が来て、暗闇が迫ってくる中で。
時間は、日没前。
一日の仕事が終わり、一日が終わろうとしている時。
だが、ユダヤの人たちの、聖書の、時間感覚では、夕は一日の始まり(「夕べがあり、朝があった」創世記1:5)。
だから、この1デナリオンをいただくこの時刻は、1日分のつとめが終わる時であるとともに、新しい一日の始まりの時。
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「家の主人」は、始まろうとする新しい一日のために、1デナリオンを手渡す。
日中の労働の対価、というよりも、もっと積極的に、新しい一日を生きて行くための1デナリオンを、一人ひとりに、預ける。だから、御言葉が響く。
「信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」(ローマの信徒への手紙4:5)と。
それ故、「家の主人」は言う。「気前のよさをねたむのか」(20:15)。
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この箇所(20:15)、文語訳は「我よきが故に、汝の目あしきか」。
この訳は、ギリシア語で記された御言葉の雰囲気を、私たちに伝える。
1デナリオンの「協定」(シュラッターの『講解』(日本語訳)での表現)を、そのまま、“値引き”も、“交渉”も、“取り引き”もなしに、守る方である「家の主人」、つまり神の「善」(ぜん /「よき」)に、私は口を挟めない。
そして、「家の主人」である神は、はっきりと、私に、「汝の目あしきか」と言われる。
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私の「目」は、最後に来た人から順に、ぶどう園の「監督」が1デナリオンを支払って行くのを見ている。そして、「不平を」言う。私の目は「悪しき」もの。
実は、この聖書の箇所は、2017年の「世界祈禱日」(3月の第1金曜日)の福音書日課。
そして、2017年の「世界祈禱日」の「式文」や「ポスター」(http: //cloister171. blog.fc2.com/ blog-entry-17. html)には、片目を右手で隠し、左手に天秤をもった女性が描かれている。
「式文」を手にした時から、この女性はなぜ片目を手で覆っているのだろうか、と不思議に思ってきた(表紙の絵のタイトルは「垣間見たフィリピンの状況」と記されている)。
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やっと気がついた。
15節で、私は、「汝の目あしきか」と言われる。私の「目」は、いつでも「悪しき」もの。
この世の出来事が、ここで、私の前で起こっている現実が、「悪しき」事、なのではない。むしろ、それを見て、「不平を言う」私こそが、「悪しき」目を持っている。
私は、「悪しき」目で、「家の主人」のなさるさまを見ては、「不平」を言う。
さらに、「不平」という口を挟んでは、神の「善」(ぜん /「よき」)を軽んじている、のだと。(以下次回)