余滴(2008年1月11日)

「見失った一匹を見つけ出すまで」
(ルカによる福音書15:4)

今日( – 1/7,地区婦人研修会 – ),「顕現日の共同の祈り」で次のように祈った。「世界の王として来られた主よ,あなたのため,ヘロデによって殉教するおさなごは幸い。どうか主よ,今この時,なおも殺されるおさなご達を祝福の内においてください」,と。
クリスマスの記事には,「幼子殉教者(おさなごじゅんきょうしゃ)」という物語りを含んでいる。ヘロデは,「博士たちにだまされたと知って」(マタイ2:16),ベツレヘム周辺の「おさなご」たちを一人残らず殺す。「共同の祈り」では,そのこどもたちは幸い,と祈る。「殉教するおさなごは幸い」と。
今日も朝のニュースで,ガザをイスラエル軍が空爆している,ということが報道されていた。今日,ガザで,或いはこの世界で今この時,忘れられ,存在を数えられることもなく,殺されて行くすべてのこどもたちに向かって,私たちは,「殉教するおさなごは幸い」と祈る。それは,クリスマスに「おさなご」として来られ,十字架へと歩まれるキリストは,「おさなご」の一人をも見失うことのない方である,と私たちが信じる信仰の内の祈り。弱く,無力で,この世の「力」の論理から言えば数える必要などない,と見られてしまう「おさなご」である,この私をも,キリストは決して見失わない。キリストの前に,私は,必ず,覚えられている。
今日聴いた,ローズンゲンで与えられた福音は,「見失った羊を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」(ルカ15:4)とのキリストの御言葉を示す。キリストは,必ず,この私をも見出すまで捜してくださる。だから,「世界の王として来られた主よ,平和を求めて,あなたの御手の内を歩む全ての民は幸い」とはっきり言い,祈ることができる。苦しみと悲しみが続く世界にあって,決して,私たちを「見失った」ままにはしておかれないキリストに従う,そのように生きることをこそ,私たちは願う。
(2009.1.7.地区婦人会研修会開会礼拝の奨励より)

*「顕現日の共同の祈り」(部分)
先唱者 世界の王として来られた主よ,あなたのため,ヘロデによって殉教するおさなごは幸い。どうか主よ,今この時,なおも殺されるおさなご達を祝福の内においてください。
一同  福音は,キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。ハレルヤ。(エフェソの信徒への手紙3:5)
先唱者 世界の王として来られた主よ,平和を求めて,あなたの御手の内を歩む全ての民は幸い。
一同  栄光は父と子と聖霊に,はじめのように今も限りなく。アーメン。