余滴(2008年1月4日)

あけましておめでとうございます
– 神の定めに従う生き方は喜び –
(詩119篇14節)
今年もよろしくお願いいたします。

昔,ファンダメンタルな会派が出している子ども向けのキリスト教説話集みたいな本が我が家にあって,私は時々それを読んでいた。
読む時というのは,たいてい,熱とか腹痛とかから始まって喘息をおこしてしまって,学校を休んでいる,というような午後だった。寒い季節
で,布団から手を出すのがいやで,本ごと掛け布団の中に入っていたりした。
その説話集の中に,お父さんが子どもたちに,「神さまがくださったものでみんなに公平にあるものは何か」と問う,という物語りがあった
( – ような気がするというべきか – )。子どもたちは,あれこれ答える( – お金だとか,食事だとか,勉強だとか – )。でもお父さんは,それらのどれにも「違う」,と言い,そして時計を見せる( – このシーンが,挿絵に描かれているのだが,その時計というのが,ベルが2つついた目覚まし時計だった。もっとも,というような気がするというべきか – )。そして,「24時間だ」と答える。誰に対しても等しく「一日は24時間だ」と答えるのだ。
子供心に,私はこの「平等主義」を,激しく嫌悪した。
その時にはうまく表現することができなかったけれども,「24時間」は同じでも,その内実には,歴然とした差がある,ということは,子供なりに感じていた。その時私が,布団の中で,天井に向かって語れたのは,“仮に「一日24時間が一緒」でも,その積み重ねである人生の長さは人それぞれなんじゃないの,だからこれはおかしいんじゃないかな”,という程度ではあった。
この世の価値で言えば,人生は平等ではない。才能も,体力も,環境も,皆,平等ではない。しかし,キリスト者として生きる,ということ
は,命の長さ,短さではない。ましてや,「24時間」の,( – バブル期の,「24時間働けますか」というC.M.が象徴していたような – )この世的な意味での充実を誇ること,でもない。「イエスは主である」と告白すると言うことは,キリストと共に歩むということに生活を賭して行く,ということ。このありのままの,私の,つまらないことで費やされていくこの「24時間」を,“主が用いてください”,と差し出して行く,ということ,なのだと思う。
翻って,私の「24時間」を思う時,私は,大いにあわてる。主に収穫していただくにふさわしい時間の過ごし方をしてこなかったと,つくづく思うから。それゆえ,「あなたの定めに従う道を喜びとしますように」(詩119:14)と詩篇の詩人が祈るのを聴く時,この2009年,主の道に歩み続けることのゆるされる毎日でありたいと,心から願うのである。