余滴(2009年3月8日)

余 yoteki 滴(Y-09-04)
『「150年」断想』(その1)
「大きな門が開かれている」
(コリント(1)16:9)

150年前(1859年),横浜や長崎に来た宣教師たちは,決して偶然に来たわけではありません。彼らは,周到に用意された(はずの)宣教計画の中で日本を目指したのです。
『英国教会伝道協会の歴史』(ユージン・ストック,編,聖公会出版,2003)は,そのことを1899年の,それも英国側の証言として次のように伝えています。
「中国が福音に対して門戸を開くきっかけとなった戦争に参加していたイギリス海軍の士官の何人かが、キリスト教徒としての愛をもっと東にある神秘的な帝国に及ぼしていた。日本には直接に近づくことができなかったので、彼らは琉球の島々のことを考えた。…1843年、彼らはCMS(英国教会伝道協会)に対して琉球に送る人を求めた」(p.14)。
この,彼らの熱意とポンド立ての強力な資金が,ベッテルハイムを琉球へと赴かせるのです。つまり,アジアにおけるヨーロッパ列強の砲艦外交は,領土利権,軍事利権,経済利権などと共に,アジア伝道という機運も含有するものなのです。
そして,1858年に徳川幕府が各国と結ぶ「和親条約」において(翌年発効),各国は,居留地内での自国宗教の礼拝が認められましたから,宣教師たちはとうとう,「神秘的な帝国」での拠点を確保したのでした。
ですから,1859年,「宣教150年」とは,始まりの年ではなくして,19世紀列強が,一つの結果を「神秘的な帝国」に対して出した,「終わりの年」,一つの終わりによって告げられた新しい始まりの年なのです。
パウロは,コリントの信徒への手紙(1)の結び近く,マケドニアを経由し6コリントに至るという旅の計画を述べる中で,エフェソに滞在する理由を,「大きな門が開かれているだけでなく,反対者もたくさんいるからです」と述べています( 16 : 9 )。福音宣教者が熱心の上にも熱心であるとき,反対者もまた大きな勢力となって出現してきます。パウロがエフェソに感じていた思いは,19世紀の横浜で,宣教師たちが抱く思いでもあったと思うのです。つまり,福音は力強い反対を受ける時にこそ,実に真理としての輝きを増すのだと,宣教師たちの働きは私たちに教えているのです。

*本稿は,2/27(金)の教区青年委員会主催,「青年の集い」での発題を基に,自由に書き直しています。

*1899年はCMS創立100周年でした。