余滴(2009年3月15日)

余 yoteki 滴(Y-09-05)
『「150年」断想』(その2)
「神に希望をかけています」
(2コリント1:10)

150年前(1859年)以降,横浜に来た宣教師たちは,インド,中国,朝鮮半島での伝道活動に基づいて,医療と結びついた宣教は有効であると考えていました。そこで,医療伝道者として,横浜にはドクター・ヘボンがアメリカ長老教会から,また琉球には英国国教会のベッテルハイム医師が派遣されました。しかし江戸幕府の鎖国体制下であっても,漢方医,蘭医の医療水準は相応に高いものでしたから,( – もちろんヘボンさんの施療所は流行りましたし,ずいぶん多くの医師がヘボンさんに弟子入りして新しい医療を学んでいます。でも, – )他のアジア諸地域のようにそれがダイレクトに福音宣教の成果とはなりませんでした。

余談ですが,伊勢原における最初の「洋医」である江口次郎人は,鶴岡の人ですが,横浜で西洋医学を学び,伊勢原で,婿入りした江口家を継ぎ「眼科医」を開業しています。横浜のどこで西洋医学を学んだかはつまびらかではありませんが,ドクター・ヘボンの眼科治療薬は爆発的な人気だったようですし,クリスチャンとして,また社会事業家として伊勢原で活動しているところから考えれば,彼とドクター・ヘボンとの間に何らかの関わりがあったと考えてもいいように思えるのです( – 江口次郎人は,伊勢原美普教会に転入しています。洗礼は,横浜で受けた,と考えるのが順当のように思われます。- )。

ところで,1858年に各国と締結された「和親条約」は,居留地内での居留民の信仰生活を保障したものに過ぎず,キリシタンと日蓮宗不受不施派とを禁令とする高札はまだ有効でした。ですから,プロテスタント各派もカトリックも,居留地内の教会として,まず存在しました。

一般の人たちへの布教活動はまだ事実上不可能でした。しかし,そのような中で,1865年3月17日に長崎の大浦天主堂で,一つの「事件」が起こります。この日,プチジャン神父は,200数十年前にカトリック教会が残していったキリシタンの末裔たちと出会います。「マリアさまの御像はどこですか」、と訪ねる浦上の隠れキリシタンたちは,伝えられていた「天使祝詞」を祈り,自分たちがキリシタンであることを言い表したのでした( – 日本のカトリック教会は,この日を「長崎の信徒発見記念日」として祝い,覚えています – )。

このことは,後に「浦上四番崩れ」と呼ばれるキリシタン弾圧事件に発展しますが,多くの殉教者を出すと共に,その血によってキリシタン禁令の高札は撤廃されるのです。

さて,そのような中,新開港地である横浜では,2つの働きが始まっていきます。一つは宣教師たちによる「英語学校」の開始です。またもう一つは,孤児院です。開港地横浜には,多くの混血児たちが誕生し,多くが非常に困難な状況に置かれていました。横浜では,プロテスタント教会の働きとして,「アメリカン・ミッション・ホーム」が,またカトリックの働きとして「仁慈堂」もしくは「菫学院」が,それぞれ混血児の養育,教育活動を行っていくのです。

初期の横浜は混沌とした新興地でした。一旗上げようとアジアを遍歴してYokohamaに来る商人,船員,技術者。関東一円のあきんどたち。さらに攘夷派。ローニン,警護の諸大名の家来たち。国籍も人種も(英国,米国,仏蘭西,独逸,和蘭,露西亜,中国,等などと)多様で,「鎖国」の間,体験したことがなかった混乱と喧騒と山っ気と商売熱心さと,そして多くの挫折と悲しみがあったはずです。

混乱と困窮の只中にあるだけに,「神に希望をかけています」(2コリント1:10)とのパウロの言葉は,福音宣教者たちの,唯一のよりどころだったと思うのです。

*本稿は,2/27(金)の教区青年委員会主催,「青 年の集い」での発題を基に,自由に書き直しています。
*横浜は,この「悲しみ」を歴史において繰り返していきます。戦後には,澤田美喜と「エリザベスサンダースホーム」の重要な働きがありました。
*アメリカン・ミッション・ホームは後の横浜共立学園,また「仁慈堂」或いは「菫学院」は横浜雙葉学園のそれぞれ源流となっていきます。