余滴(2009年3月22日)

余 yoteki 滴(Y-09-06)
『「150年」断想』(その3)

「菫学院墓所」

(「根岸森林公園」正面駐車場より徒歩25分。「大芝台」の「根岸共同墓地」内)

(「教区青年の集い」墓参箇所 1 )

1872/3(明治5/6)年,プティジャン司教の招致によって来日したサン・モール修道会( – 幼いイエス会 – )は,横浜山手居留地83番に土地を取得し,メール・マティルド以下4名の修道女で「横浜修道院」,また,「仁慈堂」と名づけられた孤児院を開設しました( – 『横浜もののはじめ考』,横浜開港資料館,発行,は,この時のサン・モール修道会の修道女の数を5名としているが,小河織布,著,『メール・マティルド』,有隣新書の記述にしたがって,その数は4人であったと確認しておく – )。

「仁慈堂」の意味について,スール・サン・ノルベル・レヴェックが,パリの総長にあてた手紙には次のように書かれているという。

「仁慈」には,「憐み,同情,温情,慈善,慈悲などの意味があります」(小河,『メール・マティルド』,p.86)。

幕末に開港地となった横浜で,「孤児」,「窮民」のための施設が,キリスト教会の中から始められた意味は大きい。「菫学院」( – あるいは,「菫学校」 – )は,「仁慈堂」の子女のための教育機関として設置されたが,1923(大正12)年の関東大震災で壊滅的な打撃を受け,以降,「菫学院」及び「仁慈堂」は,東京に同会が設置していた同種の社会事業施設へと統合されて行くことになる。掲載した「仁慈堂菫学院死者之墓」には,「明治十六年六月以後死去 昭和六年一月建之」の文字があり,或る時期,「仁慈堂」あるいは「菫学院」の,先駆的な働きを覚えようとする思いが深くあったのだろう,ということを思わさせられるのである。

ところで,私がこの墓と出会ったのは,偶然であった。そのことを長く記す余地はないが,私は,呼ばれるようにしてこの墓の前に立っていたことがある。

この墓地一帯を横浜のカトリック教会が入手したのは戦前の或る時期であろうと思われ,現在も末吉町カトリック教会の墓所,末吉町教会と山手教会の関係者の墓地があり,戦前,「陸軍兵長」として戦死をしたカトリック信者軍人の「烈忠碑」なども建つ。

私が迷い込んだ20世紀の末には,多くの墓地が縁故者不明になっていた。そして私は,暮れかけた古い墓苑で,足元にある「菫学院」の墓を見ていた。墓には,枯れた花が一輪,残されたままになっていた。開港地ヨコハマが背負って来た孤児たちの記憶。「無縁」になって,訪れる人の絶えた家族墓。十字架の墓石のもと,霊名を記した墓誌に,もはや続く者がいない。慄然とする私に,私とは “無縁” のはずのそれらの墓たちは,親しかった。大丈夫,この世で「無縁」になることは,縁故者がいなくなることは,決して悲しいことではないから。大丈夫,私たちはあなたを待っているから。大丈夫,さあ,あなたの場所に帰りなさい。私は,「菫学院」の墓前で,古い墓たちに励まされ,「また,きっと来ます」と約束をして,やみくもに歩いて来た道を,猫たちに先導されながら帰ったのだった。       (初出:日本キリスト教団長生教会週報2005.10.30.)

*本稿は,2/27?の教区青年委員会主催,「青年の集い」での発題を基に,自由に書き直しています。

*「菫学院墓所」は,この「教区青年の集い」でも墓参し,墓前での礼拝を守りました。

*この項は,2005年10月30日の長生教会週報に記載したものを加筆訂正しています。