余滴(2009年3月29日)

余 yoteki 滴(Y-09-07)

『「150年」断想』(その4)

「根岸外国人墓地」

(JR京浜東北線(根岸線)「山手駅」より「豆口台」方面に徒歩3分)

(「教区青年の集い」墓参箇所 2 )

ヨーロッパでは,教会と墓所とは,密接な関係がありました。かつて,人々は自分が生まれ,洗礼を受けた,自分の村の教会の墓所(churchyard)に葬られました。ところが,都市の発達と共に,人は,その出身地から切り離された都会の「共同墓地」(cemetery)に埋葬されることが多くなったのでした。

幕末から,日本の開港地を訪れ,そこで亡くなる遠来の人々のために,居留地は,仏教宗門とは無関係な共同墓地の必要に迫られました。そして,現在,

横浜山手外国人墓地」として知られるような,共同墓地が造営されることになったのでした( – 「横浜山手外国人墓地」は,一部,山手聖公会の教会墓所(churchyard)としての性格も兼ね備えていました – )。そして,日本の開国,近代化,という歴史のうねりの中で,開港諸都市の共同墓地は,その都市の歴史,文化,社会史的役割というものを反映したその都市固有の観光地となって行くのです。

横浜の観光スポットとしては,「山手外国人墓地」が,確かに有名です。ですが,それ以外にも,幾つかの“外国人墓地”が,横浜にはあります。中でも,「根岸外国人墓地」は,「根岸」という名称が付いていますが,所在地は,「根岸」駅より一つ横浜寄りの「山手」駅付近です。観光客が訪れることもありませんが,地元でも知らない人が多い小さな共同墓地です。名称の由来は,この地が元来,“根岸村字仲尾”という地名だった,からですが,それにしても,ちょっと混乱してしまいそうです( – ちなみに,地元の仲尾台中学が毎年,墓前祭を行っています – )。

「根岸外国人墓地」には,関東大震災で罹災した外国人,特にその子供たちの墓が何基かあります。ご両親の墓が見当たりませんから,或いは,小さな子ども達だけが地震の被害にあい,その後,ご両親は帰国されたのかも知れません。関東大震災という未曾有な災害に遭遇することがなければ,家族揃って国へと帰って行ったのかも知れないのに,と思うと,小さなお墓が,少し悲しげに見えてきます。また,1942年11月に,戦時下の横浜港で爆発炎上したドイツのタンカーと仮装巡洋艦( – 貨客船等を軍が徴用し武装させた船 – )の乗組員の慰霊碑が建っています。

年月と共に摩滅したり倒壊したりした多くの墓石の傍らで,ひっそりと,木立だけが,訪れる人も絶えた,異国で葬られた孤独な魂を見つめ,魂たちを慰めています。

(日本キリスト教団長生教会週報2005.10.2.)