余滴(2009年4月12日)

余 yoteki 滴(Y-09-08)

あの方は、ここにはおられない」
(ルカによる福音書24章6節)

「週の初めの日の明け方早く」(ルカによる福音書24:1)と福音書記者は記す。イエスの葬りのための諸作業が、未完であることを知っている「婦人たち」(23:56)は、「準備しておいた香料を持って墓に行った」(24:1)。
「香料と香油」は、イエスの遺体がアリマタヤのヨセフが用意した墓に納められるのを見た彼女たちが「家に帰って…準備した」もの。夕暮れは迫り、安息日は始まろうとしている。だから、彼女たちは「家」にあるもので「準備」しなければならなかった。そして、「香料と香油」とは当時、女性の財産。彼女たちの人生の保障。彼女たちは、今、自分のために「準備して」来たものを、手に取る。
さて、安息日が明けるや否や、春の夜明けを待ちわびて墓へと向かう。ルカは記さないが、彼女たちは「だれが墓の入り口からあの石をころがしてくれるでしょうか」と話し合っている(マルコ福音書16章3節)。そう、ここには何の「準備」もない。
「準備」とは備え。「金持ち」は、「倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい」、そして自分に言う。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。しかしその「金持ち」に神はこう言われるだろうと、キリストは譬えの中で教えられる。『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と(ルカによる福音書12章13節以下参照)。蓄えとして「用意した」物。これからの生活を支える物。熱心な働き充分な計画、周到な市場予測に従って「準備した」彼の物は、しかし、彼の物とはならない。
女性たちは、自分の将来のため、或いは娘の嫁入りのため、「用意していた」香料と香油を、いまやイエス・キリストのために用いる。そのために整え直す。将来の計画、これからの安心、人生の設計というものが微塵となって砕かれる。イエスが亡くなったのだから。そう、「その時」、人は、自分のために「用意した」ものを差し出す。
いや、人は、「この時」、本当に、自分の将来を保障する「香料と香油」を差し出すことが、できるだろうか。ルカによる福音書12章の「金持ち」は、それはできない、ということを私たちに示す。私にはできない。イエスが亡くなったのだから。私はこの「物」に頼って生活するしかないのだから。そう、私は叫ぶ。
しかし、その時、だからこそ、彼女たちの物語りは私たちにもう一つの、弟子としての、信仰者としてのあり方を示す。「準備しておいた」ものを、主のためにのみ用いる。留まらずに、石のことを思いあぐねずに、「墓」へと歩みだす。主のもとへと。復活の主のもとへと。新しい、本当のいのちの物語りの、目撃者となるために。復活の朝に。主に向かって駆け出していく信仰の物語りへと歩み出す。