余滴(2009年4月26日)

余 yoteki 滴(Y-09-09)

「寝ている間に死体を盗んで行った」
(マタイによる福音書28章13節)

マタイによる福音書だけが伝える復活の記事に、「番兵たちの物語り」とでも呼ぶべき話しがある。 「番兵」とは、墓からイエスの死体を弟子たちが盗み出すであろう、という祭司長たちやファリサイ 派の人々、或いは民の長老たち、などの懸念から、イエスの墓の前に置かれた「見張り」。つまり、 彼ら「番兵」の任務は、外から、墓の外から墓の中を物色するであろう者たちから墓を守ること。墓 への侵入をゆるさなこと。
ところが、実際には、墓は中から、墓の内側から破られてしまう。確かにマタイは「主の天使が天か ら降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座った」と記している(28章2節)。しかし実際には 、このとき既に主イエス・キリストのお姿は墓の内にはない。主のご復活という出来事が、どの時点 で、どのようなタイミングで、どのように起こったのかは、私たちには判らない。聖書を記した福音 史家たちも知らない。マタイも慎重にこう書く。天使の言葉として。「イエスを捜しているのだろう が、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」(28章5-6節 )。復活とは、私たちは起こった出来事としてのみ知る。どのようになされ、どのような過程を踏む のか、ということを私たちが知ることは決してない。
ところで、祭司長、ファリサイ派、民の長老という面々は、復活などないわけだから、弟子たちが死 体を、まさに墓の外からやって来て盗み出して行くだろう、と考えて、外に「番兵」を置く。しかし 、この行為が実に無意味である、ということを、私たちは知る。「復活」とは、墓石の外側で「見張 り」をすることによって阻止しうるものではない。「復活」とは、実に、墓の内側で、墓の中から、 死そのものの勝利が取り去られる、ということとして、キリストの死への完全な勝利として、起こる 。
この「復活」という事実に直面したということにおいては、墓に向かった女性の弟子たちと「番兵」 たちとは一緒。しかし、「復活」の証人となったにもかかわらず、女性の弟子たちと「番兵」たちと の行く道は全く別。その人生の選択は3反対。それはなぜか。 女性の弟子たちは、「あの方は死者の中から復活された」(マタイ28章7節)との天使の言葉を、伝 えるために走る者、とされた。福音の良き香りを伝える者の足は速い。同時に、「番兵」たちもまた 、この真理を伝える者とされた。女性たちよりも早く祭司長たちのもとへと。都エルサレムへと。し かし彼らは福音の良き香りを伝える者とはならない。彼らは祭司長たち、民の長老たちと一つの取引 をする。「寝ている間に死体を盗んで行った」ことにしようと(28章13節)。自分たちの、「見張り」 としての任務の責任の放棄を、彼らは人によって赦され得るものと考えている。
しかし、女性の弟子たちは、そしてまた、女性の弟子たちによって「復活」という真理を伝えられた 男の弟子たちとは、自分たちの「放棄」は、神によってのみ赦される、と知っている。だから、女性 の、また男の弟子たちは、「復活」という事実を知った者としての生き方へと走り出して行く。この 事を伝えるために。今日に至るまで、女も男も次々と。