余滴(2013年2月24日)

余yoteki滴
四旬節黙想

「境内で子供たちまで叫んで」
( マタイによる福音書 21 章 15 節 )

2月20日(水)の教団日課。この日、聴くべく示されていたのはマタイによる福音書21章12節以下の「宮きよめ」の箇所。マタイ福音書は子ロバに乗られた主のエルサレム入城の記事に続けて、「それから、イエスは神殿の境内に入り」(21章12節)と記す。神が祝福され続けておられる都に来られた主は、ただちに神殿の「境内」へと歩み行かれる。
そして、ここで行われる出来事は不可解。第一福音書は、「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばによって来た」(14節)と伝える。さらに、「境内で子供たちまで叫んで」(15節)とも言う。今や、神殿の「境内」は、そもそも入ることがゆるされなかった人々で、そして、数に入らない子供たちで、満ちているのだ、と福音書は言う。律法がイスラエル共同体の構成員とは認めない、「目の見えない人や足の不自由な人」や、年齢的に一人前と数えられない「子供たち」が、イエスをメシアであると「ダビデの子」である、と宣言する。
ちょうど、降誕の出来事の時に、東方の占星術の学者たちが(つまり異邦人が)、「ユダヤの王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」(2章2節)と言い、「民の祭司長たちや律法学者たち」(2章4節)に先んじたように、今また、「目の見えない人や足の不自由な人」や「子供たち」が「祭司長たちや、律法学者たち」(15節)よりも早く、明瞭に、端的に、イエスをメシアであると宣言する。「ダビデの子にホサナ」(21章15節)と。「境内」において、神の御前において、権威と周辺はその立地が転じる。そう、それが、「主が来られる」、ということ。
降誕に続く「幼な子殉教者」の出来事に示されている「子供たち」と共に、ここで、「ダビデの子にホサナ」と叫ぶ「子供たち」は、今や、虐げられ、闇に追いやられ、迫害され、殉教させられた者が、その無垢さ、純真さのゆえに辺地から神殿の「境内」という中心へと迎え入れられる。律法学者たちが「腹を立て」(21章15節)る中に、イエスと共に、「ホサナ」と叫ぶ喜びの内に。