余滴(2013年3月17日)

四旬節黙想
(2013/3/17)
「今、着いたところだ」
(ヨシュア記5章14節)

エリコの城壁は、放浪のイスラエルの民の前に、その堅固な威容をもって立ちはだかっている。「カナン人の王たちは皆、主がイスラエルの人々のためにヨルダン川の水を涸らして、彼らを渡らせたと聞いて、心が挫け、もはや… 立ち向かおうとする者はいなかった」(ヨシュア記5:1)という記述とは裏腹に、エリコの城壁は、堅固さを誇ってイスラエルを寄せ付けない。
堅城エリコを前にして、むしろ、ヨシュアの心が「挫け」そう。彼は、自分たちの無力さを覚えて目を伏せる。
そのヨシュアと威容を誇るエリコとの間に、一人の男が立つ。ヨシュアが 「目を上げて、見ると、前方に抜き身の剣を手にした一人の男がこちらに向かって立っていた」(同5:13)。
この「一人の男」はヨシュアと対峙する。ヨシュアとエリコの間に立って、ヨシュアの方を向いて剣を抜いている。ヨシュアは、「目を上げて、見る」まで、彼の存在に気づかない。ヨシュアは、エリコ攻略の糸口を求めて深い思索の中に沈んでいたから。目を伏せ、思いを巡らし、足下を見つめていたから。
しかし、この一人の男は、ヨシュアの前に立っている。ヨシュアが目を上げるのを待って、立っている。
「目を上げる」、とは、己の思考に頼ることを放擲して、主なる神に信頼する者のこと。「目を上げる」、とは、「あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう」(詩32:8)と言ってくださる神を、信頼しきって見上げる者のこと。
その信仰をヨシュアが心の内に取り戻した時、自分が何かをなすのでは なくして、主なる神がしてくださるのだ、との思いにヨシュアが得心した時、彼は「目を上げ」そして「見る」。主が既に備えてくださっている救いを。そしてヨシュアは、怖じけることなく彼に「歩み寄」る。
マグダラのマリアが、園丁だと思っていた男こそがキリストだと気づいた時、その足下に「すがりつく」ように(ヨハネによる福音者20章16-17節)。あるいは、ヘブル書が「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」(ヘブライ人への手紙10章22節)と言う時のように、ヨシュアは「歩み寄」る。
そして、男に問いかける(13節)。それに対して、この一人の男は、「わたしは主の軍の将軍である、今、着いたところだ」(14節)と答える。
「今、着いたところだ」。そう、救いは今、到来した。「今日、… あなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカによる福音書2章11節)との宣言と同じように、「目を上げ」神にのみより頼む信仰を生きようとするヨシュアに、神は、「今」、救いは到来したと言ってくださる。十字架のみを「見上げる」者には、誰にでも、「今」この時に。