余滴(2014年1月1日)

『新春 shin-syun-mokusou 黙想』

「あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。」(申命記30:20 )

 新春のお喜びを申し上げます。
 掲げた聖句は、1月1日のTaize(「テゼ共同体」)の日課。モーセの最後の説教の結びの部分。モーセは「今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」(申30:15 )とイスラエルの民に宣言する。
 私は、「幸い」と「災い」とが、私の前に併置されている、ということをどれだけ自覚しているだろうか。
 モーセの人生は、“ただ神にのみ仕えて歩む”、ということの難しさを、痛感し続ける日々。そして彼は、イスラエルに、「命を選びなさい」( 19節 )、と迫る。
 そして私たちも、この聖句の前に立つ。
 モーセは、いつでも、神を第一に考えて分岐点で対処してきた。彼はそのように自負する。そう自任しつつも、自分の折々の選択に、自己の利害が全く含まれなかった、とは言いきれない、ということをも冷静に見ている。

 私たちも、人生の選びを、いつでもする。年齢相応に、人生において「あれかこれか」を決めなければならないことがある。
 そして、自分が考えられる限りの是々非々に従って判断する。その時の基準は、私にとっては、自分の利害。そう、人が、自己の利害を基準にせずに決断を生きることは困難(というより無理)。
 モーセは、「今日、…あなたの前に置く」と私にも語る。神がモーセを通してイスラエルに求めておられるのは、「今日」この時、という一瞬一時を、神の手に委ねきって生きる、という覚悟。
 だが実際には、私はいつでも神の御前で逡巡する。神の前であれこれと言い訳をする。“今日は、体調が悪かったので”。“今日は、外の仕事が忙しかったので”。「あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい」と言われているのに。
 モーセは根気づよく私に言う。“お前は神の前に立っている。さあ、どうするのか”、と。
 いや、この言い方は正しくない。
 そうではなくして、モーセが語るのは、“神が、私の為に、私の前に立っていてくださる。神が、この、価値のない、神の前に無意味でしかない私のために、立っていてくださる。そして、「あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従」うことへの、神の助けの確かさを確信しなさい、と御手を伸べていてくださる。だから、その手をつかみなさい”ということ。
 御手への全的な明け渡しを、しがみついて、離さない、そのような歩みへと、さあ、と、モーセは聖書を通して2014年の冒頭に呼びかける,私にも。