余滴

四旬節の黙想 ( 1 )
「この村に入ってはいけない」(マルコによる福音書8章26節)

ベトサイダでの癒しの出来事の終結を、マルコは、『イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された』(26節)と記す。
キリストは、7章31節以下の出来事と同様、“物見遊山気分”の「人々」と、この「一人の盲人」(22節)とを隔絶される。
そして、あの時よりも厳しく、「この村に入ってはいけない」、とその人に命じられる。
この「盲人」は、「人々」によって連れて来られた。「触っていただきたい」と願ったのも「人々」。でもキリストは、癒しの結果を「人々」に目撃させない。
キリストは、この人に、「家」に帰るように命じられる。
彼の「家」で待つ人がいるのかどうかは語られない。待つ人がいなくても、彼は「家」に帰る。そのようにキリストは命じられる。「何でもはっきり見えるように
なった」(25節)今、この人にとって、「家」は、今までと違った意味を持つはず。
キリストは言われる。あなたを連れ来った「人々」は、あなたの仲間ではない、と。あなたは、この見せかけの“交遊”に戻る必要はない、と。
しるしを求め、議論をしかける「人々」を、「心の中で深く嘆」かれるキリスト(8章11-12節参照)は、この人に教える。
真にあなたを心配する友は、あなたのために祈る人であって、あなたをしるしや議論の“ネタ”にしようとする「人々」ではない、と。今日、この時から、「はっ
きり見えるようになった」あなたは、あなたの「家」を、あなたが、友のために祈る場所にしなさい、と。
そして、私にも、今日尋ねられる。あなたは祈っているか、と。
あなたの「家」は、友のための祈りの「家」になっているか、と。
十字架へと歩まれるキリストは、私に問いかける。
私の傍らを、十字架へと急ぎ通り過ぎながら。

余滴(2014年3月2日)

「深く息をつき」( マルコによる福音書 7 章 34 節 )

マルコ福音書は、7 章 31 節を、キリストがガリラヤ湖に来られた時とし、一つの物語りを記す。
この話しをマルコは、やや唐突に、一人の「耳が聞こえず舌が回らない人」が癒されることを、「人々」は、「願った」と、書く( 7 章 32 節 )。
しかしキリストは、「人々」とは話し合わない。
むしろ「人々」との関わりを避けられ、ただこの一人と、向き合ってくださる。
そして、この人と直面してくださるその中で、「天を仰いで深く息をつき、…『エッファタ』と言われ」る( 34 節)。文語訳では、「天を仰ぎて嘆じ」とあ
る。キリストは、「人々」の物見遊山気分、この人の、信じるということの本質に至ることのない姿勢に、「深く息をつ」かれる。
そう、キリストは、私を前にして嘆息される。
私の信仰の浅さ、信じるという程には信じておらず、手に握ったものを、それがくだらない “がらくた” でしかないということを分かっていても、なおも手を
開いて放り出そうとせずに、しかも、握った手のままで、キリストにも寄りすがろうとする愚かさを示す私を、正面から見つめ、キリストは嘆息される。
私は、キリストを、嘆かせる。
でも、キリストは、そのような信仰の弱い私に、なお「開け」と言われる。
閉ざされた耳を、舌をも、開かれるキリストは、まず私に、その握っている手を開いて、愚かにも握っている、役に立たない ( 繁栄、獲得、上昇、栄誉、とい
った ) “偶像”を投げ捨てて、キリストにのみより縋るように、従うようにと、うながされる。
キリストは、嘆息しつつも、決して私を見放すことはなされない。私が、 “がらくた” を捨てるべく手を開くのを、我慢強く、待っていてくださる、そう今こ
の時も、「エッファタ」との御声と共に。