余滴(2014年3月2日)

「深く息をつき」( マルコによる福音書 7 章 34 節 )

マルコ福音書は、7 章 31 節を、キリストがガリラヤ湖に来られた時とし、一つの物語りを記す。
この話しをマルコは、やや唐突に、一人の「耳が聞こえず舌が回らない人」が癒されることを、「人々」は、「願った」と、書く( 7 章 32 節 )。
しかしキリストは、「人々」とは話し合わない。
むしろ「人々」との関わりを避けられ、ただこの一人と、向き合ってくださる。
そして、この人と直面してくださるその中で、「天を仰いで深く息をつき、…『エッファタ』と言われ」る( 34 節)。文語訳では、「天を仰ぎて嘆じ」とあ
る。キリストは、「人々」の物見遊山気分、この人の、信じるということの本質に至ることのない姿勢に、「深く息をつ」かれる。
そう、キリストは、私を前にして嘆息される。
私の信仰の浅さ、信じるという程には信じておらず、手に握ったものを、それがくだらない “がらくた” でしかないということを分かっていても、なおも手を
開いて放り出そうとせずに、しかも、握った手のままで、キリストにも寄りすがろうとする愚かさを示す私を、正面から見つめ、キリストは嘆息される。
私は、キリストを、嘆かせる。
でも、キリストは、そのような信仰の弱い私に、なお「開け」と言われる。
閉ざされた耳を、舌をも、開かれるキリストは、まず私に、その握っている手を開いて、愚かにも握っている、役に立たない ( 繁栄、獲得、上昇、栄誉、とい
った ) “偶像”を投げ捨てて、キリストにのみより縋るように、従うようにと、うながされる。
キリストは、嘆息しつつも、決して私を見放すことはなされない。私が、 “がらくた” を捨てるべく手を開くのを、我慢強く、待っていてくださる、そう今こ
の時も、「エッファタ」との御声と共に。