余滴(9月14日)

「御言葉を行う人になりなさい」
ヤコブの手紙1章22節

ヤコブ書は、御言葉を「聞くだけで行わない」のは、
「鏡」で「生まれつきの顔」を見ても忘れてしまう人だと言う。
「鏡」は、手本、模範という意味も含有している。
本当に聴き、方向を委ね得るのは御言葉だけなのだ、とヤコブ書は言う。
今、この時代に、
御言葉のみに頼り、御言葉を「行う」生き方を選びなさい、と。
そう、私たちは、自分の智恵、自分の思考を羅針盤にしている。
「鏡」を見なければ思い出すことができないような「生まれつきの顔」、
“自分の顔”を頼って生きている。
だから私は、
御言葉を「行」い、御言葉を「生きる」生き方が、自分の生き方の対極にあるのだと、
そのことに憧れなければならない。
深く、そしてはっきりと。

余滴(9月7日)

私をも信じなさい
(ヨハネによる福音書14章1節)

キリストは、弟子たちを前にして「わたしをも信じなさい」と言われる。
どうしてキリストは私「をも」、と言われるのか。
なぜ、
私「を」信じなさい、と諭されないのか。
そう、キリストは弟子たちに厳しくはっきりと迫る。
あなたたちの信仰は知っている。だが今時、なお一層、私を信じなさい、と。
それは、弟子たちをしてキリストを信じられない時が間もなく来るから。
十字架の出来事を見て、「心を騒がせ」る時が来るから。
だから、
神を信じるように、強くしっかりと私を信じなさい、と。
キリストは、
振起日のあした、私にも言われる。「わたしをも信じなさい」。
どんな時、時代であっても、しっかりと私の十字架だけを見つめて歩め、と。

余滴(8月24日)

「イエスを試そうとして」
(マタイ22:35)

一人の律法学者が、
「イエスを試そうとし」たのは、「イエスがサドカイ派の人々を言い込められた」と知ったから。
サドカイ派の人々は、
「復活」という自分たちを他の会派から峻別している課題から
キリストに問いを発する(マタイ22:23以下)。
が、この一人の律法学者は、
信仰の根幹を問う。
その問いは、単純だが深遠。
律法に生きる全ての信仰者がもつ問い。“旧約聖書とは何ですか?”、という問いに等しい。
そして、キリストの答え(37-40節)も、核心。
それは、父なる神ヤハウエが、律法の民全体に命じたことの中心。
そう、
キリストは、敵対するものの内側にあるまっすぐな思いにさえも目を留めてくださる。
では、私はどれほどの真摯さをもってキリストの前に立っているだろうか。

余滴 (8月17日)

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」
(ルカ1:45)

 マリアは、
受胎告知を受け入れた重い体をおして、叔母エリサベトを山里に尋ねる。
そして迎えたエリサベトがこのみ言葉を語る。
苦悩せざるを得ない生き方の中で、神のみをまっすぐみつめることの困難さを思う。
むしろ、
神などに頼らないで、他のものに一時的に待避している方が、よっぽど利口なのではないか、と。
でもマリアは、将来に、神の御旨の成就を確信する。
ただ信じ生きる時の、困難の中での幸いをマリアは示す。
そして彼女は、
虚心に神の前に立つ信仰を見つめる信仰の友、エリサベトと出会う。
伝統的な日課は、この聖句を8月15日に置く。
その重みを今年、ひしと感じる。