“中高生と一緒に、マルコによる福音書1章40-45節を読む”
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昨日の「道灌祭り」(今年は10/17-18)での出来事です。
午後、街を歩いていると、
「先生、今日はもう召し上がっているんですか」、
って言われてしまいました。
「召し上がっている」と言っても、別にお汁粉ではなくて、「(ビールやお酒などのアルコール類を)一杯、飲んでますか」という意味です。
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実は、このところ体調が悪いんです。ブタクサ(の花粉)とかが飛んでいるらしい。先日、ドクターに「薬が合わないわねぇ」って言われてしまって、「処方を変えましょう」っていうことになったんです。
ただ、漢方だから、効果が出るのが早いか、ブタクサの花粉が飛ぶのがやむのが早いか、というと、これはちょっと、難しい。
そんなわけで、
「先生、もう召し上がっているんですか」
と言われても、いちいち、体調が、とか、アトピーが、とか、喘息が、とか話すのが面倒になってしまって、えへへ、とか言っているだけなんです。
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ここ(マルコによる福音書1:40-45)には、「重い皮膚病」の人が出て来ます。
「重い皮膚病」とは一体、どんな「病い」か、ということも(重要な問題として)あるけれども、律法には、旧約聖書には、「重い皮膚病」になったら隔離しなさい、というようなことが書いてある。
ですから、この人は、
“生きているけれども生きていない”
んです。
その彼が、律法を乗り越える覚悟をして、イエスさまの前に出て来て、ひざまずいて、「御心ならば」と祈ります。相当に勇気がいる行動です。
また、イエスさまも、この人と相対して、しかも「深く憐れんでその人に触れ」るわけですから、あきらかな律法違反ということになります。
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「重い皮膚病」の人を共同体の外に出す、というのは、人々を守る、共同体を守る、ということ(のための処置)です。それは、生きているその人を、生きているままで殺すことで、その(「重い皮膚病」の)人以外の共同体を助けることができる、という考え方です。
感染は防げるけれども、その人は、
“生きていても死んだ人になる”
ということです。
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この人は、その人の立場から言うと、
“触れてもらってはいけない”、
そういう生き方をしなさい、と律法によって言われている、ということになる。
ところが、彼は、
触れてもらうために出て来る。
イエスさまも、彼に「触れ」たって書いてある。
律法に従って生きて来た人たちは、本当にびっくりしたと思います。もっとも、この人が近づいて来た時に、お弟子さん達も含めて、誰も彼も、クモの子を散らすように逃げてしまっていたことでしょう。
イエスさまだけが彼を待っていた。
ただお一人、そこの場に、彼が出て来るところにいてくださる。
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「触れる」、ということは共同体への回復です。
“生きているけれども死んでいる”、という状態から、
“生きているから生きている”という状態に、
この人を、イエスさまが、回復してくださる、ということです。
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ところで、私は、一向に清くしてもらえないなぁ、と思うんです。どうしてだろうねぇ。不思議ですよね
たぶん、ボクはね、イエスさまの前に跪いていないんだと思います。彼は、跪いて祈るわけです。ところがボクは、(跪いたとしても、)せっかく跪いたんだから、あれもこれもお願いして、と思うわけです。でも、そうじゃない、と聖書は、言うんです。
ここが、信仰の難しいところだと思います。
この人は、律法というものを押し破って、「御心ならば」と祈るわけです。ただあなたの御旨なら、と祈るんです。
そして、キリストは、その彼に手をおいて癒してくださる。
そのような、待っていてくださるキリストを信じる、というのが信仰なのだろうと思うのです。
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祈ります。主よ、あなたの御前に、まっすぐ歩み出して行くことができますように。
(2015/10/18「小礼拝」説教から抜粋)