【余 yoteki 滴】

中高生と一緒にマタイによる福音書27 章 32 – 44 節を読む


イエスさまは、十字架におかかりになる。イエスさまを真ん中にして、三本の十字架がたっている。
イエスさまの左右の十字架についている人も、周りの人と一緒になって(イエスさまのことを)ののしった、って書いてある。
自分も死んでいこうとしているのに、一緒に死のうとしている者をののしる。こういうことも、人間には起こるのだ、ということも心に留めておいて欲しい。

ゴルゴタという丘に行くまで、
イエスさまは、十字架の横木を担いで行くのだけれども、途中、もう持っていられなくなってしまって、キレネ人シモンに担がせた。
彼は、たまたま通りかかった「お上りさん」だろうか?
このキレネ人シモンという人が、

今年は過越の祭りさ行くべぇ。荷物もつくったし、笠もかぶったし。行くべぇ。
ついたべぇ。ははっ、ここがエルサレムの町か。大きいねぇ。
この橋を渡るのか。何、小銭を払うのか、財布から、こうやって、小銭さ出して。へい、これが渡りちんでございますだ。何ですって? 橋番さま、「渡りちん」ではなくて、「橋税」と言え、ですか。へいへい、さようでございますか。では、めえります(参ります)で。
ここが神殿か。ははっ、大きいねぇ。スマホで撮るべぇ。

ってやって来た、のだろうか。
もちろん、この日は、すっごく「お上りさん」が多い日。
過越の祭りの日なのだから。だから、
たまたま、“担がさせられちゃった”、ということもあるかも知れない。でも、
不思議でしょ?

今日の箇所(マタイによる福音書27章32-42節)に出て来る登場人物は、まずシモン。それからイエスさま。それに、兵士たち、左右につけられる「強盗」、祭司長たち、群衆たち。つまり、
この場面には、たくさんの人たちが出てくる。ところが、
この箇所で、名前が出てくるのは、(イエスさま以外では、)このキレネ人シモンだけ。
ねっ、ただの「お上りさん」だろうか?
ひょっとすると、イエスさまに会いに来た人?

ヨハネによる福音書(12章20節以下)には、
(「過越の祭」の前に、)ギリシア人が何人か会いに来た、ということが書いてある。この人も、
“イエスさまに会いたい”、と思っていたから、
イエスさまが十字架の横棒を担いで歩いておられた時に、思わず群衆の前に出てしまったのかなぁ、と私は、
思ったりする。

彼が、この後どうなったか、聖書はなにも書きません。でも、
マタイによる福音書は、“十字架と出会う”、とは、こういうことなのだ、と言っているのだと思う。
“イエスさまと会う”、ということは、
“イエスさまの十字架に出会う”ということなのだ、って。
ほんの一時(いっとき)なのだけれども、
イエスさまのかわりに十字架を担う、ということが、
“イエスさまに会う”、ということなのだ、
と聖書は教えている、と思う。私たちも、
このキレネ人シモンのように、
“イエスさまに会いたい”、と願って、そして、
イエスさまの十字架の、ほんの一端でもいいから担わせていただけたら、いいなぁ、と思うのです。

(祈り)
主イエス・キリスト。あなたは、私たちのために十字架についてくださる方。
主イエス・キリスト、あなたは、十字架を担げ、とお命じになる方。
十字架におかかりくださるキリスト、あなたを仰ぎ見て、あなたに会いたいと願いつつ、歩ませてください。
(2015/11/15「小礼拝」での奨励から)