【余滴】(2016年10月9日【三位一体後第20主日】の説教から)

「九人は何処(いずこ)に在(あ)るか」

列王記(下)5章15-19節

ルカによる福音書17章11-19節

 

☆ 今朝、私たちは二つの癒しの物語に出会いました。

一つは、列王記(下)5章にあるナアマンの物語です。

ナアマンは「重い皮膚病」を患っていて、エリシャのところに行くのです。するとエリシャは、ナアマンに、川で、七度身を清めなさい、と言うのです。それを聞いたナアマンは、激怒するのです。それでもナアマンは言われた通りにするわけです。

そうすると彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになった、というのです。今日は、その先からが読まれました。

 

☆ ナアマンは、エリシャのところに戻り、「らば二頭に負わせることができるほどの土」を求めるのです。礼拝をするためのようです。

ナアマンが受け取って行く「土」は、彼の祈りの場なのかもしれません。

らば二頭分の土は、そこに小さなイスラエルを出現させる、ということなのでしょう。

 

☆ 祈りの場を、どのように生活の中で持つか、ということを、このナアマンの物語りは私たちに教えているのではないかと思うのです。

御言葉を開いて祈るための「椅子」というものがあったら、生活は本当に豊かになる、と言ったらいいでしょうか。御言葉を開いて祈るためだけの、ちいさな「机」というものがあれば、私たちは神の前に祈る、そういう生活ができる、とナアマンの物語りは、私たちに教えてくれるのだと思うのです。

 

☆ さて、「九人は何処に在るか」という説教題をつけました。

(「世界共通日課表」に従っていますので)2010年には、この箇所に「一人」という説教題をつけていました。それは、イエスさまのところに帰ってくるのは「一人」だからです。

今回は、“9人”です。

私は、「九人は何処に在るか」とキリストが問われる時、叱責されている、という気がずっとしてきたのです。そして、たぶん私は“9人”の中に在る。たぶん帰りませんね。

 

☆ 皆さん、医者に行きます。お薬をもらいます。そして、治ったからと言って医者に行きません。ドクターのところに「先生、治りました」と、報告には、たぶん行きません。そういうものです。治ったら行きません。ですから私も、“9人”の中にいます。イエスさまのもとには帰りません。

でも、イエスさまはこの“9人”を叱っているとは思えなくなって来ている。

むしろイエスさまは、この“9人”を心配しておられる、と思う。帰って来ないのが当たり前だと、イエスさまも思っておられるのではないか、と思うのです。

 

☆ ナアマンは、戻って来ました。「随員全員を連れて」と書かれています。ナアマンは、これからの自分の祈りの生活というものをどのようにしていったらいいのか、神の人エリシャと相談する、という目的があった。

ナアマンがエリシャと話したのは、清くされたことへの感謝とともに、将来のことです。これから自分は、“清くされたもの”としてどう生きるのか、というのがナアマンのテーマです。帰って来る、というのはそういう事である、と聖書は伝えている、と思うのです。

 

☆ 10人は、サマリアとガリラヤの間を通ってエルサレムに上って行かれる途中のイエスさまと出会います。

ここは、ガリラヤなのか、サマリアなのか判らない境界線上です。サマリアだとも言えるし、ガリラヤだとも言える、曖昧な場所です。国境といったらいいでしょうか。「境目」なわけです。

しかもイエスさまは「ある村」に入って行って、通り抜けて行こうとされる。イエスさまはただひたすら、まっすぐにエルサレムに向かって歩まれます。

そうすると、10人は、イエスさまに向かって「声を張り上げ」るのです。ただこの箇所の原語は「大声をあげる」とは書かれてはいない。むしろ声を揃えて、「先生、私たちを憐れんでください」というのです。

 

☆ イエスさまは、今、二つの視線を浴びています。

一つはここに出て来ている視線です。イエスさまは、10人が声を揃えて、「あわれんでください」という声を聞いています。その視線を感じておられます。そしてそれは、村の外からイエスさまに向けられている視線です。熱い視線と言ってもよいかも知れません

それに対して、たぶんの村の入り口に立っている人たちは、これがガリラヤの村なのかサマリアの村なのか判りませんが、歓迎しない目線で見つめていると思うのです。冷たい視線が、ルカは記しませんが、一方にある、ということです。そして彼らも、キリストには近づいてきません。

 

☆ その中で、イエスさまは、この「重い皮膚病」の人たち、共同体から疎外されている人たちに向かって、こう言われるのです。

「見て」とルカは記しますが、イエスさまは彼らを「見て」、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われるのです。ギリシア語は、「行け」、「示せ」、「自らを」、「祭司に」という順で書かれている。ですから、永井直治訳は、「往きて己自らを祭司に見(あら)はせ」、です。

イエスさまの御言葉と出会う、という事は、自らをイエスさまに現す、という事なのだ、と言ってよいと思う。

 

☆ 「重い皮膚病」だったと書かれています。

彼らは自分自身を見るのが一番嫌な時にイエスさまに出会うのです。

私も、鏡を見てて、ああ、今日も悪いな、と思うわけですよ。でもそういう自分と向き合え、とイエスさまは言うのです。自分の見たくないところを見ない限り、イエスさまの言葉は届かない、と。

イエスさまは、祭司のもとに行け、と言われますが、それは、神の前に、と言い換えてもよいと思うのです。己自らを神の前に、と言われている。

私は、神の前にほんの少しの隠し事もできない、ということに気づかなければならない。そのように、「重い皮膚病」の10人に言われるイエスさまの言葉が、今日、私に、響かなければならない。

 

☆ 「彼らはそこに行く途中で清くされた」。彼らは、まだ祭司のところで「己自らを見(あら)は」していません。

しかし、私たちは、私が包み隠さず、私の全てを神の前にあらわす、という決意を、キリストの言葉を聞いてするのであれば、「行く途中」で清くされるのだ、ということに出会うのです。

翻って言えば、私が一向に良くならないのは、そういう決意に至らないからです。決意は行動を促す、とルカは言うのです。それが御言葉の働きだと言うのです。御言葉の前に立つものは、御言葉によって生き方が変えられて行く、というのです。

祭司に会いに行くためには、彼らが追い出されて来た、彼らを疎外した、彼らを迫害した村落共同体の中にもどらなければいけない、ということを含んでいるからです。ですから、彼らは白眼視のただ中に入って行く、ということです。

 

☆ 矢内原忠雄はこの箇所で、彼らは“食い逃げした”と書きます。

でも私たちの信仰も、たいてい“食い逃げ”です。聞いて帰って忘れるのですから。

朝、読んだ御言葉を、夜、覚えていないのですから。私たちは、いつでも御言葉の前に“食い逃げ”なのです。

そして、イエスさまは、この“9人”を責めてはおられない。“食い逃げ”でもよいから、あなたは私の前に来なさい、あなたは、私の言葉で変えられなさい。あなたは、私の言葉を聞いて、次の一歩を、今来た道ではない方向に、歩み出しなさい、と今朝も、私に、語りかけておられるのです。

この“9人”でしかない私は、「9人はどうした」と言ってくださるイエスさまに、深い慰めを感じてよいのだと思うのです。キリストが、私の消息を問うていてくださる、それが、キリストの言葉と出会う、という事だと思うからです。

 

☆ イエスさまは、戻って来た、このサマリアの人にこう言われます。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。

「起きろ」と言われるのです。イエスさまは、新しい命への「よみがえりなさい」と言われるのです。そして「行きなさい」と言われる。

 

☆ 彼はきっと、行く場所がなかったのです。そして、“9人”には帰るべき場所があったのですよ。

ナアマンは戻ってきましたが帰る場所がありました。そして、帰るべき場所を、らば二頭分の土で小さな聖所にすることで、彼は帰るべき場所をつくることができました。でもこの「一人」には帰る場所がなかった。

そして、その人に、イエスさまは言われるのです。「帰りなさい」と。

御言葉によって変えられた者は、御言葉によって新しい命にいきるべく「よみがえらされた」者は、新しい場所に、信仰によって歩み出して行きなさい、と言われるのです。

 

☆ そして、彼には一緒にいやされた“9人”の魂への責任がある。信仰共同体というのは、そういうものだ、とルカによる福音書は思っている。

私たちは、10人のうち、たったひとり残って来た、「一人」なのです。私たちのこの礼拝の外に、帰って来ない“9人”がいるのです。

ですから、私たちは、教会は、“9人”の魂のために祈り続けなければいけないのです。

残り“9人”の安否を、主が問うておられるのですから、私たちは、「残りの者」として集められた教会の役割、責任として、ここにいる一人ひとりが、ここにいない多くの信仰の友のために祈り続けなければならない。そういう祈りの群れへと主によって深めていただかなければいけないのです。