余 yoteki 滴 2017年2月5日

食事が終わると

(ヨハネによる福音書21章15節)

☆ ペトロは、湖畔での食事が終わると、イエスと共に歩き始める。

イエスが、ぺトロの少し前を歩まれる。イエスの後を、ペトロは従って行く。

彼らは、主従の序に従って、ペトロの気持ちに即して言えば、この時、教える者と、教えを請う者との関係で歩み始めている。

そう、イエスとペトロは歩み出す。ペトロは、師イエスに従う者として、同じ湖畔で召し出されたあの時と同じ状況だ、と思い出しながら。

☆ しかし、キリストはそうではない。

イエスは、ペトロを弟子から使徒へとされるために、歩み出した“この時”、をお用いになる。

ややさがってつき従うペトロに、イエスは、『この人たち以上にわたしを愛しているか』と問われる。ペトロは、弟子としての心得を述べる。『はい、主よ。…あなたがご存知です』。キリストは3度、ペトロに問われ、ペトロは、3度キリストに応える。

☆ もっとも、ヨハネによる福音書21章15節は、「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です』と言うと、イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた」と記すばかりで、彼らが、湖畔を歩み始めている、とはどこにも記されていない。

そのことは、21章20節になってはじめてあきらかになる。

「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついてくるのが見えた」。

キリストに従って歩み出していたペトロは、自分の後に、同じようにイエスに従って歩み出している者がいるのだと知る。

☆ 湖畔での、再度の召命は、“見えないキリスト”について行くということ。

3度、問われるのは、その生き方が、一時の熱情や、人の側の、弟子の側の、私たちの側の、感情や思いが問われているのではない、ということを示す。私たちは、弟子は、「はい、主よ。…あなたがご存知です」と応えるが、でもその前に、ただ、主の助けだけが、信仰的確信を生き続けることを得させるのだ、とヨハネによる福音書を残した信仰共同体は、深く理解している。

入信の時の、なみなみならない熱意など、またたくまにさめるのだから。

☆ ヨハネによる福音書を残した信仰共同体は、3度、問いかけられるキリストの前から脱落して行く信仰の友の多いことを知っている。むしろ、はっきり言えば、大半の仲間は、離脱して行くし、現に亡散している。

なぜなら、イエスをキリストと告白して行く生活は、とても生きにくいものだから。

ヨハネの共同体が、ユダヤ教社会の中にあるのか、それとも、多神教的異教社会の中に存在しているのか、私は知らない。しかし、どちらであったとしても、イエスをキリストであると言い表して行く歩みは、生きにくさを通り越して、生きて行くことそのものを阻害しかねない。そういう社会の現実の中で、告白に生きようとする、それがヨハネの共同体。絶対的な少数者を生ききろうとする告白に生きる群れ。

☆ それだから、17節には「悲しくなった」という言葉が挟まれる。

「イエスが三度も『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」。

ここでの“悲しみ”は、キリストが3度も「愛しているか」と3度も問われたことが“悲しい”と言っているのではない。

むしろ、3度、問われることに耐えきれずに、この世へと脱落して行く、そういう“友”の多いことへの嘆き。時代の只中で、キリスト者を生き、信仰を生きる、ということが必然的に生み出す“悲しみ”の先取り。

 

だから、弟子から使徒へと、“見えるイエス”の後に従っていた者から、“見えないキリスト”に押し出されて福音の使者とされて行く者は、皆、この“悲しみ”を覚えて、前に進み行かなければならないのだ、とペトロの使徒としての召命の出来事を通して、この福音書を残した人々は、語りかける。私たちに。今日も。この時代も。

(2017 / 01 / 22 婦人会での聖研から)