余yoteki滴 2017年2月12日

「パンを持ってくるのを忘れ」

(マルコによる福音書 8 章 14 節)

☆ 弟子たちは、舟に乗るのにパンを持ってくるのを忘れた。

もっとも、向こう岸に渡るだけだから、どうしてもパンを持っていないといけない、ということではない。

でも、ペトロは、アンデレに始まって11人に、

「パンを持ってきたかい?」と尋ねると、

「水筒は持ってきた」とか、

「クッキーなら持っています」とか言うわりには、

誰もパンを持っていない。

弟子たちみんなに聞いてしまって、残っているのはイエスさまだけで、

「あのー、イエスさまは?」と言うと、

「パンなら1つある」とイエスさまがお答えになった。

そんな場面。

☆ そしてイエスさまは、弟子たちに、次の15節で、

「ファリサイ派の人々のパン種と、ヘロデのパン種に気をつけなさい」、と

そう言われる。

不思議。

弟子たちは、“今、パンを持っていない”、ということに気持ちの中心がある。

なのに、イエスさまは「パン種」の話しをなさる。

「パン種」は、今、ここでパンにすることができるわけではない。

「イエスさま、話しがずれています」

と、言いたくなるような、そういう雰囲気。

弟子たちが“パンがない”ということで頭がいっぱいの時に、

イエスさまは、弟子たちに「パン種」のことで注意を喚起する。

イエスさまは、私たちが、

自分の関心、自分の思いにだけとらわれて、にっちもさっちも行かなくなっている時に、

「どうしよう、あれがない」、「これができない」、「あれがないと無理」、

と思っている時に、

全然関係のないこと、と私たちが思ってしまうこと、を告げられる。

本質的なことを、弟子たちに、私に、告げられる。

そういうことではないかと思う。

☆ ところで、マルコによる福音書は、「ファリサイ派の人々のパン種」、「ヘロデのパン種」の意味をはっきりとは説明しない。

ここでは次のようなことが問われているのではないか、と私は思う。

それは、「ファリサイのパン種」、「ヘロデのパン種」では、

“満腹”はしない、

ということ。

弟子たちは、イエスさまとのこの後の会話で、パンが12のかごにいっぱいになったこと、あるいは7つのかごにいっぱいになったことばかりをイメージしている。イエスさまは、パンを増やしてくださったのだ、と。

☆ イエスさまが弟子たちに問われている本質は、そこではない。

イエスさまが、弟子たちに、そして私たちに問われるのは、パンを食べて

“満腹”したではないか、

ということ。

「ファリサイのパン種」、「ヘロデのパン種」では、“満腹”しない。

ただ、イエスさまのパンだけが、私たちを“満腹”させる。そのことに気づいているか、と問われている。

☆ と、

イエスさまが弟子たちにお話ししているうちに、

舟は向こう岸についてしまった。

やっぱり、舟の中で、パンを食べる、という時間はなかった。

☆ ところで、

文語訳は、8章14節をこう訳している。

「弟子たちパンを携(たずさ)ふることを忘れ、

舟には唯一(ただひと)つの他パンなかりき」。

イエスさまが「パンなら1つある」と言われたのは、ご自分のこと。

本当のパンが1つ、ここにある、ということ。

そのことに、短い舟でのこの道中で、気がつかないといけない。

イエスさまは言われる。

本当のパンが、食べれば絶対に、

“満腹”するパンが、

1つある、

そのパンは、この私の舟に、この私と一緒に乗っていてくださる、

ということに気がつかないといけない、と。

そのように、

イエスさまは、弟子たちにも、私にも、今日、語りかけてくださる。

(2017/02/05小礼拝での説教から)

余 yoteki 滴 2017年2月5日

食事が終わると

(ヨハネによる福音書21章15節)

☆ ペトロは、湖畔での食事が終わると、イエスと共に歩き始める。

イエスが、ぺトロの少し前を歩まれる。イエスの後を、ペトロは従って行く。

彼らは、主従の序に従って、ペトロの気持ちに即して言えば、この時、教える者と、教えを請う者との関係で歩み始めている。

そう、イエスとペトロは歩み出す。ペトロは、師イエスに従う者として、同じ湖畔で召し出されたあの時と同じ状況だ、と思い出しながら。

☆ しかし、キリストはそうではない。

イエスは、ペトロを弟子から使徒へとされるために、歩み出した“この時”、をお用いになる。

ややさがってつき従うペトロに、イエスは、『この人たち以上にわたしを愛しているか』と問われる。ペトロは、弟子としての心得を述べる。『はい、主よ。…あなたがご存知です』。キリストは3度、ペトロに問われ、ペトロは、3度キリストに応える。

☆ もっとも、ヨハネによる福音書21章15節は、「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です』と言うと、イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた」と記すばかりで、彼らが、湖畔を歩み始めている、とはどこにも記されていない。

そのことは、21章20節になってはじめてあきらかになる。

「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついてくるのが見えた」。

キリストに従って歩み出していたペトロは、自分の後に、同じようにイエスに従って歩み出している者がいるのだと知る。

☆ 湖畔での、再度の召命は、“見えないキリスト”について行くということ。

3度、問われるのは、その生き方が、一時の熱情や、人の側の、弟子の側の、私たちの側の、感情や思いが問われているのではない、ということを示す。私たちは、弟子は、「はい、主よ。…あなたがご存知です」と応えるが、でもその前に、ただ、主の助けだけが、信仰的確信を生き続けることを得させるのだ、とヨハネによる福音書を残した信仰共同体は、深く理解している。

入信の時の、なみなみならない熱意など、またたくまにさめるのだから。

☆ ヨハネによる福音書を残した信仰共同体は、3度、問いかけられるキリストの前から脱落して行く信仰の友の多いことを知っている。むしろ、はっきり言えば、大半の仲間は、離脱して行くし、現に亡散している。

なぜなら、イエスをキリストと告白して行く生活は、とても生きにくいものだから。

ヨハネの共同体が、ユダヤ教社会の中にあるのか、それとも、多神教的異教社会の中に存在しているのか、私は知らない。しかし、どちらであったとしても、イエスをキリストであると言い表して行く歩みは、生きにくさを通り越して、生きて行くことそのものを阻害しかねない。そういう社会の現実の中で、告白に生きようとする、それがヨハネの共同体。絶対的な少数者を生ききろうとする告白に生きる群れ。

☆ それだから、17節には「悲しくなった」という言葉が挟まれる。

「イエスが三度も『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」。

ここでの“悲しみ”は、キリストが3度も「愛しているか」と3度も問われたことが“悲しい”と言っているのではない。

むしろ、3度、問われることに耐えきれずに、この世へと脱落して行く、そういう“友”の多いことへの嘆き。時代の只中で、キリスト者を生き、信仰を生きる、ということが必然的に生み出す“悲しみ”の先取り。

 

だから、弟子から使徒へと、“見えるイエス”の後に従っていた者から、“見えないキリスト”に押し出されて福音の使者とされて行く者は、皆、この“悲しみ”を覚えて、前に進み行かなければならないのだ、とペトロの使徒としての召命の出来事を通して、この福音書を残した人々は、語りかける。私たちに。今日も。この時代も。

(2017 / 01 / 22 婦人会での聖研から)