余yoteki滴 終末節黙想

「自分の財産」 マタイによる福音書25章14節

(2017/11/19 終末前主日に)

 

14自分の財産を預けた

 

キリストは、天の国は、私たちに神が「己が所有(もちもの)を預くるが如し」、と言われる。

神は、私に預けてくださる。御自身のものを。

「預かる」というと、何か消極的な印象。でもこの字は、「委ねる」、「託す」とも言い得る。

私たちに、キリストは託してくださる、委(まか)せてくださる、御自身の所有(もちもの)を。

 

16五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンもうけた。

 

「商売」と新共同訳は翻訳している。が、この語は、「働かす」という意味。「商売」というよりも貨幣を働かせる(という意味での)「投資」とか「運用」というニュアンス。文語訳は、「五タラントを受けし者、は直(ただ)ちに往(ゆ)き、之(これ)をはたらかせて、他に五タラントを贏(もう)け」と「はたらかせて」と訳している。資産運用と言うべきか。

 

で、文語訳は「儲ける」というところに、「贏(もう)ける」という漢字をあてている。中国の古い字書である「説文解字」では、この「贏(エイ)」という字を、「有餘、賈利也。从貝エイ(「贏」という字の下の月と卂(あるいは凡)の間が貝ではなく女)聲」と説明している。よって白川静は、「貝を財利の意と解するものであろう」と説明する(「字通」)。つまり、「贏」という字には、賈しての余利、余剰、利ざやという意味が強い、ということ。

 

16ほかに五タラントンもうけた。

 

あるいは、私たちは、発想を転換して次のように考えた方がいいのかも知れない。

神が、御自身の所有(もちもの)を預け、託して行かれるのが、「天の国」なのだとすると、神から託されたもので「もうける」ということが推奨されているのでは、ない、ということ。

神の「所有(もちもの)から利ざやを得るなどということよりも、神から託された「タラント」を、恵みを、祝福を、5タラントンもの大量の賜り物を、余さず人のために用いることこそが、求められているのではないか、と。

もちろん彼らは「宜(よ)いかな、善(ぜん)かつ忠(ちゅう)なる僕(しもべ)」と言われる。でも、本当に神の所有(もちもの)に対して忠実な良い僕は、託されたもので余剰を得るのではなく、ましてや、「汝(なんじ)のタラントを地(ち)に藏(かく)しおけり」とするあり方でもなく、主人が帰ってきた時に、

“託されたあなたのタラントは、ご覧ください、他者のためにきれいに使い尽くしました”、

ということができる歩みなのではないだろうか。

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