余yoteki滴

「あなたがたの中で病気の人は教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」(ヤコブの手紙5:13)

 

私は、いつでも不思議な思いに捉われる。葬儀の諸式に出席しないと、その人の死というものを実感できない気がする。

人は、“死”を経験することはできないから、他者の“死”をもって、“死”を、いわば“擬似的に”体験する。

だから、“死”は、通知をもって始まる。“亡くなりました”という一報が、その人と私とが、死と生という区別によって隔てられたのだ、と知らせる。

ヤコブは、「病気の人は教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」と記す。ここで語られる「長老」という役職は、聖職位としての、のちの「司祭」なのだろう。そして、「塗油(終油)」という「秘跡」(サクラメント)は、ここから導き出されてゆく。

もちろん、プロテスタント教会は、「聖礼典」(サクラメント)を「洗礼」と「聖餐」の2種としたから、「塗油(終油)」を「聖礼典」(サクラメント)として行うことはない。それでも牧師は「枕辺の祈り」を祈る。そしてそれは、「教会の長老」としての“機能”なのだと聖書は、私に教える。

「教会の長老」は、他者のために祈る、という“機能”を負う者。ペトロは次のように記す。「わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい」(ペトロの手紙(1)5:1-2)。「長老」の“機能”は、「神の羊の群れを牧」すること。「世話を」すること。その内に、死への備え、というものがあるということであろう。

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