余 yoteki 滴

「イスラエルの人々は主の命令によって旅立ち、主の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた」

(民数記9 章 18 節)

 

先日、ドクターに「体重をはかりましょう」と言われた。

はかってみたけれどもそんなに体重は減っているわけではない。ドクターは、まじまじと私の顔を見て、「やつれているわね」。

確かにアトピーはかなりひどい。これ以上ひどくすると、面差しが変わってしまう。その自覚はある。しかし、やつれていると、言われるとは。

 

で、民数記9:18(5月29日(火)のローズンゲンが上記の聖句)。

「イスラエルの人々は主の命令によって旅立ち、主の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた」。

 

「旅立ち」とは、“始まり”であろう。

人生にはいろいろな“始まり”(旅立ち)がある、と思う。

入学、社会人一年生、婚約、転職。時には「献身」などという“始まり”もある。

 

そして「宿営」とは“ひとつの終わり”であろう。

あるいはそれは、“休止”であるかもしれないし、“終止符”であるかもしれない。ちょうどそれは、「卒業」が次の「入学」や、あるいは、「就職」などの「始まりへの終わり」なのだとすれば、「宿営」もまた、始まりを内に含んでいる終わり、ということになろうか。“終わり”と“始まり”とは、だから、実は同義なのだ、と私は知る。

 

話しはもどるが、先日の血液検査の結果は優等生。

基準値のうちに収まっている。

中性脂肪なんて表彰されてもいい。

でもドクターは続けて言う。「本人が鏡で見るよりも、実際はもっとやつれているわよ」。

そうなのだ。最近続けざまに、疲れてませんか、とか、早く帰ってください、とか言われてしまう。明日一日潰れているのと、一ヶ月入院されてしまうのとでは、明日一日潰れている方がいいです、とか、言われてしまっています、とドクターに言うと、ほら、という顔をされた。

そして「能力で仕事をせずに、肌の状態で仕事しないと無理ね」、と言う。

 

そんなに一所懸命、あれこれとやっているのだろうか私は。

そう、すべての出来事が、“始め”であるとともに“終わり”であるのだとすれば、一つの“終わり”に向かって、つまり次の“始め”に向かって進み続けて行けばよい、それだけのことであろう。

 

民数記は、続く19節をこう記す。

「雲が長い日数、幕屋の上にとどまり続けることがあっても、イスラエルの人々は主の言いつけを守り、旅立つことをしなかった」。

だから、始まりの時も、始まりに至らない日常も、私ではなく主なる神がお決めくださるのだ、と確信して歩みたい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です