余yoteki滴

「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」

(コリントの信徒への手紙 (1) 3 章 23 節 )

 

上記の聖句は、10月6日(土)のテゼ共同体の日課。

この日、私は幼稚園の運動会を見ながらこの聖句の意味について思い巡らしていた。パウロは言う。「(あなたがたは)だれも自分を欺いてはなりません」(コリントの信徒への手紙 (1) 3章18節)。

私は、(何とか自分だけは)欺きたい、と思ってしまう。自分の事を鏡で見ないで、自分の事を客観的に見ないで、私は、私が理想とする自分であると(何とか自分だけは)欺きたい、と思ってしまう。

だって、周囲は、私に欺かれないから。等身大の私しか見ていないから。でも私は、(何とか自分だけは)欺きたい、と思ってしまう。

パウロだって、いっぱしの学者になりたいと精進した自分を知っている。博学を誇りたいと願った自分を知っている。でも、キリストと出会った時に、そんな自分の小ささを認めざるを得なかった、という事を知っている(それでも書簡は、充分に衒学的だけれども)。

神の前に何者でもない自分を見つけてしまった。いや、知ってしまった。

だから彼は、「めしいて」しまう。キリストはご覧になっている。傲慢な私も、自分勝手な私も、人との競争に打ち勝つことにのみ価値を置いている私も、セコくて、みっともなくて、失敗だらけの私も、キリストはそのままご覧になっている、と知ることになる。だから彼パウロは、そんなキリストのまなざしに耐えられないと思い、「めしいて」しまう。

そして、キリストを信じるという生き方は、「自分を欺かない」という生き方なのだ、と気づかされた時に(時間はかかったと思うけれども)、「目から鱗」の経験をする。キリストは私を受けとめていてくださっている、既に。あとは、私を、私が受けとめる事、と気づく時に、パウロは「目から鱗」を経験する(そこに至れるのは、すごいことだと思う)。

簡単なことなのに、本当に簡単なことなのに、この道は遠い、と気づく。「まっすぐな道」を行けば簡単にたどり着けるのに、私は、その道を行こうとしない。だから「まっすぐ」にキリストにたどり着けない。本当に簡単なことなのに。

パウロはその事を何とかして伝えたいと願う。

人生は単純で、キリストがご覧になっている私を、そのありのままの私を、キリストの前に受け入れる。「まっすぐな道」を歩む事なのだ、と。

次の日(10/7)の主日日課で、イエスさまは私に言われる。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(マルコによる福音書10章14節)。そう、私が、私を、妨げている。私がキリストのところに行く事を、私が、妨げている。

運動会は、午前中のクライマックスに差し掛かっていて、年長の子どもたちが旗体操をしている。

子どもたちがグラウンドに登場した曲が終わって、子どもたちは、それぞれの場所にじっとしている。そして次の曲までの「間」が静かに続いている。音楽はなく、子どもたちは動かない。時間だけが流れて行く。緊張した良い時間。不安になっているのは、大人たちであって、練習をしてきた子どもたちではない。そして、楽曲の始まりとともに、子どもたちの演技が始まる。大人たちの、ほっと息を吐く気配が続く。

私は、子どもの無邪気さを生きられない。だから、「まっすぐ」に歩むことは、難しい。

でも今日、私は、「まっすぐ」に歩むことの難しさを知っている、という歩みへと踏み出させてもらえる。「あなたがたはキリストのもの」と、パウロが招いている言葉によって。「わたしのところに来なさい」とのキリストの招きによって。大人の心配をよそに、じっと「間」を待つ子どもたちの姿によって。

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*引照していない聖句は、使徒言行録9章1節以下に記されているパウロの出来事です。新共同訳は「直線通り」ですが、口語訳は「真(ま)すぐ」、文語訳は「直(すぐ)という街(ちまた)」という訳です。

(2018/10/14週報掲載)

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