余yoteki滴

あけましておめでとうございます。

主の降誕2019年を主が御手の内においてくださり、その豊かな恵みの内を歩むことができますように!

 

伊勢原教会で湘北地区の新年合同礼拝がもたれるのは2011年以来のことだと思います。地区の牧師先生方にもずいぶんと変化がありました。また、教会・伝道所を取り巻く状況も、変わってきています。日本キリスト教団の教勢はずっと右肩下がりです。2019年度の教団予算は、とうとう収入が(伝道資金負担金を含んでなお、)3億円を下回ります。

 

そして、それぞれの教会・伝道所の財務的な内実も厳しい状況です。

でも、私たちの内に不安はありません。だって、教会はもっと大変な時代を経験してきました。教勢が伸び悩む、それどころか落ち込む、ということを、大なり小なり体験して来ました。そしてそれでもなお、教会は、御手の内を歩んで来たのですから。

 

今日、1月1日は12月25日から8日目です。

聖餐式の中の「特別序唱(特別叙唱)」には、「ことに、聖霊の働きによって,御子をおとめマリアから生まれさせ,まことの人としてくださいました。これは御子がその汚れない人性をもって,私たちのすべての罪をきよめてくださるためです」との祈りがあります。まだ、生まれて8日目のイエスさま、でも、無力なこのお方こそが、「私たちのすべての罪をきよめてくださる」方なのです。

 

私たちが信頼し、唯一と確信しているこの方は、今日、まだ命の8日目を歩んでおられます。

でも、その方は「私たちのすべて」なのです。この方が、のちのち偉大なお方になるから私たちは信頼しているのではないのです。

この方が、この方であるから、私たちはこの方に信頼をよせるのです。そのことの素晴らしさに気づいて行けたらと、今日、思うのです。

 

教会には、争いや分裂、悲しみや痛みがあります。でも、そういう全てを私に預けなさい、と言ってくださる方は、まだ生まれて8日目の赤ちゃんなのです。

そして、ここに真理があります。

私たちが誰かの庇護を得たいと思う時、その人は大きな力を持っている、と私たちに感じられる人なのでしょう。でも、本当に私たちが唯一頼りにする方は、無力の極みにおられるのです。

そうです。

私たちの人間としてのモノサシ、基準、判断を、私たちが知恵だと思っているものを、私たちが打ち捨てた時、私たちは、無力の極みにおられるこのイエスこそが、「私のすべて」なのだと気づくのです。人の思い、人の願い、人の思考によって霞んでる視野を、それらを打ち捨てて視界を開いていただく時、私たちは十字架以外何も知るまい、と祈る自由を与えられるのだと思うのです。

 

2019年、私たちが無垢な信仰を歩み、キリストを信じる真理へと深く、確実に、主によって招き入れていただく事を願って行きたいとこそ思うのです。

(2019/01/01湘北地区新春聖餐礼拝用書掲載)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。