余yoteki滴

求める心、探す勇気

求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。

(マタイによる福音書7章7節)

「園だより」1月号より

 

1月のキ保連(「キリスト教保育連盟」の略称)の主題聖句は、マタイによる福音書7章からとられています。イエスさまは、まず私たちに「求める」心を持つように、と教えられます。

私たちは、苦労や、大変なことばかりだと、どうしても下を向いてしまいがちです。

うつむいてしまっている時、目線を上げて高く天を見上げて「求める」ということは、なんだかとても難しいことのように感じられてしまいます。目を上げたって無駄だと思ってしまいますし、そんなことに時間を使っている暇なんでない、と思ってしまいます。

でも、イエスさまは、困難な時、下を向かざるを得ない時に、そういう時にこそ、顔を上げなさい、首を伸ばしてごらんなさい、とおっしゃるのです。そして、山を越えてその向こう側を見ようとするかのように、神さまを訪ね求めなさい、と教えられます。

「求めなさい。そうすれば与えられる」(マタイによる福音書7章7節)。

なんと確信に満ちた言葉なのでしょう。求めるものは、必ず与えられる、と。

でも、現実の日々は決してそんなに甘くはありませんよ、と私たちは知っています。神さまにどんなに祈っても、私の願いは聴かれない、そういう経験を、私たちは積み上げて行きます。そして、ゆっくりと諦めて行きます。それが、「大人なのだ」、と思うようになります。そしてエスさまは、そういう私たちに、だからこそ、頭を上げなさい、と言われる。

「探しなさい。そうすれば与えられる」

イエスさまは続けてこう言われます。「探す」ということは、探すために動き回る、ということです。「捜す」ために出立する、ということです。「捜す」ものは、真理です。私たちの生き方の根幹です。本物の生きる指針を「捜す」ために、さあ、立ち上がって旅立ちなさい、とイエスさまは言われるのです。

(「園だより」に服部能幸教師が書いているコラムから。一部修正しています)

(2018/12/16週報掲載)

余yoteki滴

救い主を探しに

(マタイによる福音書2章1節以下)

「園だより」12月号より

 

キ保連(「キリスト教保育連盟」の略称)の12月の聖句は、マタイによる福音書2章からとられています。この個所は、東方の博士たちが、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」(マタイによる福音書2章2節)を礼拝するためにはるばるやって来たところです。

東方の博士たちは、ただ「星」だけを頼りに、まだ見たことのないイエスさまを尋ねる旅に出ました。もちろん、彼らの行動には、彼らなりの論理がありました。でも、周囲から見れば、それはものすごく無謀なことと映ったことでしょう。遠くユダヤまで? 生涯をかけて? 今での積み上げてきた名声も、権威も投げ捨てて? どうしてそこまでするの? その旅に意味はあるの? そう、周りは思い、博士たちの行動を止めようとしたかもしれません。でも博士たちは、親しい人たちの反対を押し切って、旅に出ました。「星」だけを頼りにして。

ところが博士たちは、ユダヤに入ったあたりで、自分たちを導いてくれていた「星」を見失ってしまいました。そこで、彼らはヘロデの王宮に行き、「王としてお生まれになった方」はどこにおられるのか尋ねることにしました。彼らの決断は勇気のあるものでしたが、同時に、大変危険なものでした。彼らは、現職の王であるヘロデに、地上の権威者であるヘロデに、未来の、そして本当の権威である王はどこにおられるのか、と尋ねたのです。

マタイによる福音書2章は、「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(3節)と記しています。救い主が来られるということが、王を、エルサレムの人々を「不安」にさせる、のです。

東方の博士たちは、キリストのご降誕に出会うために、そしてそのお方を礼拝するために、生涯を傾けて、キリストとの出会いを求めている人たちです。イエスさまに出会う、ということは、私たちの人生が、それまでの私の歩みが、根底から覆って行く、そういう出来事です。クリスマスという出来事に出会うということは、私たちを、今までとは違う生き方へと招くのです。

(「園だより」に服部能幸教師が書いているコラムから。一部修正しています)

(2018/12/16週報掲載)

余 yoteki 滴

バタバタと忙しい。会議、ミーティング、打ち合わせに沢山の時間を使っている。そういう日々で与えられたみ言葉。「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」(ルカによる福音書6章12節)。11月7日のテゼの日課。日課自体は、6章12節から19節まで。イエスが弟子を選び、その弟子と共に「山から下りて、平らな所にお立ちになっ」(17節)て癒しの御わざをなさるとこと。しかし、それらのすべての前にイエスは祈るのだ、と記されている。さて、では私は、と深く思う。

(2018/11/11週報掲載)

余yoteki滴

「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」

(コリントの信徒への手紙 (1) 3 章 23 節 )

 

上記の聖句は、10月6日(土)のテゼ共同体の日課。

この日、私は幼稚園の運動会を見ながらこの聖句の意味について思い巡らしていた。パウロは言う。「(あなたがたは)だれも自分を欺いてはなりません」(コリントの信徒への手紙 (1) 3章18節)。

私は、(何とか自分だけは)欺きたい、と思ってしまう。自分の事を鏡で見ないで、自分の事を客観的に見ないで、私は、私が理想とする自分であると(何とか自分だけは)欺きたい、と思ってしまう。

だって、周囲は、私に欺かれないから。等身大の私しか見ていないから。でも私は、(何とか自分だけは)欺きたい、と思ってしまう。

パウロだって、いっぱしの学者になりたいと精進した自分を知っている。博学を誇りたいと願った自分を知っている。でも、キリストと出会った時に、そんな自分の小ささを認めざるを得なかった、という事を知っている(それでも書簡は、充分に衒学的だけれども)。

神の前に何者でもない自分を見つけてしまった。いや、知ってしまった。

だから彼は、「めしいて」しまう。キリストはご覧になっている。傲慢な私も、自分勝手な私も、人との競争に打ち勝つことにのみ価値を置いている私も、セコくて、みっともなくて、失敗だらけの私も、キリストはそのままご覧になっている、と知ることになる。だから彼パウロは、そんなキリストのまなざしに耐えられないと思い、「めしいて」しまう。

そして、キリストを信じるという生き方は、「自分を欺かない」という生き方なのだ、と気づかされた時に(時間はかかったと思うけれども)、「目から鱗」の経験をする。キリストは私を受けとめていてくださっている、既に。あとは、私を、私が受けとめる事、と気づく時に、パウロは「目から鱗」を経験する(そこに至れるのは、すごいことだと思う)。

簡単なことなのに、本当に簡単なことなのに、この道は遠い、と気づく。「まっすぐな道」を行けば簡単にたどり着けるのに、私は、その道を行こうとしない。だから「まっすぐ」にキリストにたどり着けない。本当に簡単なことなのに。

パウロはその事を何とかして伝えたいと願う。

人生は単純で、キリストがご覧になっている私を、そのありのままの私を、キリストの前に受け入れる。「まっすぐな道」を歩む事なのだ、と。

次の日(10/7)の主日日課で、イエスさまは私に言われる。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(マルコによる福音書10章14節)。そう、私が、私を、妨げている。私がキリストのところに行く事を、私が、妨げている。

運動会は、午前中のクライマックスに差し掛かっていて、年長の子どもたちが旗体操をしている。

子どもたちがグラウンドに登場した曲が終わって、子どもたちは、それぞれの場所にじっとしている。そして次の曲までの「間」が静かに続いている。音楽はなく、子どもたちは動かない。時間だけが流れて行く。緊張した良い時間。不安になっているのは、大人たちであって、練習をしてきた子どもたちではない。そして、楽曲の始まりとともに、子どもたちの演技が始まる。大人たちの、ほっと息を吐く気配が続く。

私は、子どもの無邪気さを生きられない。だから、「まっすぐ」に歩むことは、難しい。

でも今日、私は、「まっすぐ」に歩むことの難しさを知っている、という歩みへと踏み出させてもらえる。「あなたがたはキリストのもの」と、パウロが招いている言葉によって。「わたしのところに来なさい」とのキリストの招きによって。大人の心配をよそに、じっと「間」を待つ子どもたちの姿によって。

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*引照していない聖句は、使徒言行録9章1節以下に記されているパウロの出来事です。新共同訳は「直線通り」ですが、口語訳は「真(ま)すぐ」、文語訳は「直(すぐ)という街(ちまた)」という訳です。

(2018/10/14週報掲載)