余yoteki滴

幼児洗礼

 

今日、教会は、その責任として幼児洗礼を執行いたしました。

古代の教会では、幼児の洗礼は稀でした。

むしろ、洗礼は、成人した個人が、それぞれの責任と自覚によって洗礼を受けるものでした。

 

しかし、4世紀になってキリスト教が公認宗教になるに従って、中世までの間に幼児の洗礼が主流になって行きます。それは、特に中世以降、(カトリック)教会が、洗礼を受けずに(また終油を受けずに)生涯を終わると天国へと至れない、との信仰を強固にして行く中で、(つまり、幼児の死亡率が高い社会の中で、)幼児の洗礼は定着をして行くのだと言ってよいと思います。

また、カトリック教会が、洗礼とともに、堅信、結婚、終油などの人生の折り目の出来事を教会の範疇におさめて行ったのも幼児の洗礼が主流となって行く上で重要な要素であったと思います。

 

やがて、キリスト教会が大航海時代以降、キリスト教世界以外との接触を深めて行く中で、成人の洗礼は見直され、その重要性を認識されて行くこととなって行きます。

とはいえ、伊勢原教会の歴史を振り返ってみると、特に、伊勢原美普教会時代には、幼児の洗礼が多く執行されていることが確認されます。

この傾向の背景には、戦前の日本列島の社会の幼児の死亡率の高さもあると思われますが、同時に、メソヂストの系譜に立つ教会が、家族の信仰というものを強く意識していたからではないかと思われます。

つまり、テモテへの手紙(2)に「信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りました」(1:5)とあるように、教会は、家族のうちに信仰が継承されることを願ってきたのだと言ってよいと思うのです。

 

幼児の洗礼を教会が執行する時、私たちは、ですから教会の信仰の「試し」の時にあるとともに、教会が家族としての信仰を受け継ぎ続けて行くことができるか、という「試し」の前にも立たされているのだと言ってよいでしょう。そして、すべての主による「試し」は、教会を、またその群れに集う私たちの信仰を強めて行くものであると、そのように私たちは信じるのです。

(2019/07/14週報掲載)

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七夕

 

本日、七夕です。

星を信仰の対象とするのは、古代社会で普遍的なことです。新約聖書でも、東方の占星術の博士たちは、星に導かれてキリストの元に来ます。

星の輝きは、いつでも不思議なことなのだと思います。

 

そして、去年は、西日本を豪雨が襲いました。

私が、教区の問安使として岡山・倉敷を訪れたのは7月の末でしたが、本来であれば稲刈りを迎えていたと思われる水田が、干からびた土砂の中に埋もれていました。

備州は江戸時代には既に有数の穀倉地帯です。ですからその光景は、この列島に生まれた者としては、何とも言い難い、悲しみに満ちた光景でした。水田の再建は難しいかも知れません。

そして、その水田と共に、多くの建売住宅なのでしょうか、新しい雰囲気の家が、二階まで水没した様子がありありと伺える状況でした。その中で、大庄屋なのでしょうか、古くからの家が、高く土塁を組み、その上にさらに屋敷の周りに白壁を巡らして水害を免れているのは象徴的でした。古くからの土地の人たちが持っている見識が受け継がれていなかったことにも、残念な気持ちが強く押し寄せてきました。私たちは、「文明」という名の下に、何を失ってきたのか、考えさせられる時でした。

 

それにしても、都会の空は星を見分けることもできないくらいになってしまいました。

世界の全てを作られた全能の神を信じる私たちにとって、神さまは、星をも作られた方ですから、もう少し夜空の美しい生活を取り戻しても良いのではないかな、と思います。さて、でも今日、彦星、織星は輝いてくれるでしょうか。天気は御手の内です。

(2019/07/07週報掲載)

 

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(2019年度の聖句と標語)

○聖句  主御自身があなたに先立って行き、

主御自身があなたと共におられる。 (申命記31章8節)

○標語  主なる神が、いつでも共にいてくださる恵みに生きる。

(2019年3月17日総会議決)

 

2019年度、伊勢原教会は、上記の聖句、標語を掲げて歩みたいと願っています。

上記の聖句は、モーセがヨシュアを呼び寄せて語る言葉の一部です。

 

モーセは、出エジプト以来の「全イスラエル」の前で、「もはや自分の務めを果たすことができない。主はわたしに対して、『あなたはこのヨルダン川を渡ることができない』と言われた」と語り始め、そしてヨシュアがこれからは「全イスラエル」を率いて行くということを語り、ついでヨシュアに語りかけます。「強く、また雄々しくあれ」と。

 

つまり、ヨシュアも「全イスラエル」もぜんぜん、強くも雄々しくもないのです。

むしろ、モーセが“もう私は無理”と語ることに恐々とし、前途への不安や、将来への暗い予想に打ちのめされようとしています。モーセの「強く、また雄々しくあれ」は空手形のようにしか聞こえません。

 

でも、モーセの「元気」、「安心」、「笑顔」の根拠は主なる神にのみあるのです。

大丈夫、いつでも神さまは一緒だから、とそう言うのです。

神さまが一緒、ということは、では、どういうことなのでしょうか。

モーセは、「主御自身があなたに先立って行」かれる、と語ります。神さまが一緒、というのは、私の前を主が先立って歩まれる、ということなのだとモーセは語るのです。

 

私が大変な時に、私のかたわらにそっと来てくれる、とかいうような、なまやさしいことではない、とモーセは言います。

神さまが一緒ということは、時に、神さまのスピードで、神さまのペースで行くことを要求される、とモーセは語ります。神さまの後を、一所懸命、追いかけるような、そういう大変さを伴うのだ、と言うのです。

 

私たちが、まだまだだ、とか、これから準備をして、とか、じっくり計画を立てて、とか語り合っている時に、神さまはすでに出発された、と私たちは聞かされるのです。

そして私たちは、とるものもとりあえず、まさに「押っ取り刀」で先立たれる神さまを見失わないように追って行くのです。

 

主の恵みは、いつでも私たちに先行します。

恵みの足は速く、神さまは先へ先へと進み行かれるのです。

ですから、私たちは、驚愕します。

そして人間の、自分の、私の、予定や計画や打算が打ち砕かれるのを見ます。でも、モーセは言います。「主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない」と。主がどんどん先に行かれても、「恐れてはならない。おののいてはならない」のだと。

 

2019年度、私たちは、ここ伊勢原教会をお用いになる神さまの人知をはるかに超えた恵みに驚愕しましょう。

困難や、分裂や、悲しみの只中で顕(あれわ)される神さまが先立たれる恵みに気付きましょう。

そして祝福の満ち満ちていることの喜びを、孤独、無理解、中傷、挫折のその痛みの中で深く知りましょう。

キリストの十字架は、私の、教会の、弱さ、痛み、悲しさのうちにこそ打ち据えられ、高くしっかりと掲げられるのですから。

(2019/05/05週報掲載)

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  • 長老任職式について

 

日本キリスト教団の『口語式文』(1959)「役員任職式(就任式)」のルブリック( – 一種のト書きのこと – )には,

「教会役員に選挙された時,任職式(就任式)を行わなければならない。任職式か就任式かの選択は,各個教会に委ねられる」(p.192)

とあります。

伊勢原教会は、メソヂストの系譜に連なる教会です。よって、メソヂスト教会のもってきた職制理解であれば、教会役員は「執事」ないし「幹事」と呼ばれます(日本メソヂスト教会であれば「幹事」)。

 

しかし、現在、私たちは、「長老」を擁する教会として、メソヂスト的な伝統の中を歩んでいます。

では、「長老」とか「執事」とかの違いは何でしょうか。教団の『新しい式文』(1990)の解説には次のように記されています。

役員を長老と呼ぶ教会では「任職式」が用いられてきた。

教会の職制として長老職に任じられ、最初に長老になる時には、長老の按手がなされた。

これは生涯長老であることを意味し、長老として選出されなかった時も、現職と休職の相違はあっても、長老であることは変わらない。そこで、再選の時には報告だけで特に式はしない。

「執事」「幹事」の場合には、長老のように終身その職につくのではないので、「就任式」と呼ぶのが正しい。

 

つまり「任職」とは、その任(務)への召命を意味する,と考えられ,就任( – 一時的にその役割りを担うこと – )とは区別して理解されて来た、ということです。

教会役員を、「長老」と呼ぶか、それとも「執事」「幹事」と呼ぶかは、些細なこと、ではなく、教会論というものによって示されている職制理解というものが、その内側にある、ということです。

 

そして『式文』では,その「任職の辞」において,牧師は,教会とキリストとを代理して,選ばれた役員(長老)にこう確信をもって宣言するのです。

「あなた(がた)は,キリストの召を受けてこの務に聖別されたのでありますから,(主は)これから後も,必要な恵みと知恵とを与えてくださいます」と。

私たちは、2008年以来の長老任職式に今日、立ち会います。

(2019/04/21週報掲載)

 

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「価値があるものではないか」

(マタイによる福音書6章26節)

 

上記の聖句は、3月22日の「ローズンゲン」新約日課。

キリストは、マタイによる福音書6章25節で、「思い悩むな」と教えられ、そして続けて、あなたは「鳥よりも価値あるものではないか」と語られる。

この言葉に、人々は驚く。

鳥よりも価値がある、と言われたことはなかったから。鳥は獲って食べることができる。でもお前は穀潰しで役立たずではないか、と言われていたから。領主であれ、地主であれ、村長であれ、収穫の役に立たないものを不要な存在、無用な存在として扱う。私はそう扱われて来た。無為徒食である。無駄である。「働き」のない私は、それに抵抗できない。

 

しかしキリストは、自分の命のことで、自分の体のことで思い悩むな、と今日、私に言われる。

そのままの私を、キリストはご覧になる。飾ることではなく、言い繕うことではなく、そのままでキリストの前に歩み出しなさい、とキリストは言われる。あなたには「価値がある」、キリストはそう私に語りかけられる。

(2019/03/24週報掲載)

 

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「主の祈り」を祈る

 

「キ保連」(キリスト教保育連盟)の3月の聖句は、マタイによる福音書の最後の言葉です。ご復活のキリストが弟子たちに告げる、マタイによる福音書におけるイエスさまの最後の言葉です。

そこでイエスさまは、お弟子さんたちに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28章20節)と言われます。でも、イエスさまはご復活から40日後に、みんなの見ている前で天に上げられ、私たちには見えなくなってしまいます。

 

その時、天を見上げていた人々に、天からの使いはこう告げます。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒言行録1章11節)。この天使の言葉は驚きです。イエスさまがもう一度おいでになる、とはどういうことなのでしょうか。この時、集まっていた人たちもやっぱりこの言葉に驚いたと思います。

 

そして、驚いた人々はどうしたのかというと、「彼らは皆、婦人やイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒言行録1章14節)と聖書は記すのです。

では、この時、彼ら彼女たちはどう祈っていたのでしょうか。

私は、この時、彼ら彼女たちが、「これだ!」と思い出し、祈っていた祈りは、「主の祈り」だと思うのです。イエスさまが、いつでもこのように祈りなさい、と教えてくださった「主の祈り」が、この時、彼ら彼女たちの祈りの生活の中心、信仰の中心となったのです。そしてそのことは、今でも変わらないのです。

 

*「主の祈り」は、聖書の中では、マタイによる福音書6章9節以下とルカによる福音書11章2節以下に出ていますが、年長組が覚えるのは、そして教会で祈られ続けているのは、祈りの形として整えられ、教会が継承してきた「主の祈り」です(「讃美歌21」に、また「こどもさんびか改訂版」にも載っています。ご参照ください)。

(「園だより」3月号より、一部修正)

(2019/03/17週報掲載)

 

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喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

(ローマの信徒への手紙 12 : 15 )

 

ローマの信徒への手紙は、パウロがまだ会ったことのないローマにいるキリスト者たちに宛てて記した手紙です。

受け取り手は、ローマにいるキリスト者たちですが、彼らが「ローマ人」であるとは限らないわけです。むしろ、ローマの教会は、いろいろな国や地域の人たちが集う、文化も、言語も、肌の色も、多様な、さまざまな人たちの集まりだったのではないかと思われます。

そういう人たちに向かって、パウロは、この言葉を書く前に「愛には偽りがあってはなりません」とまず語ります(12章9節)。

 

あえてパウロがそう記す、ということは、「愛」には偽りがあるのだということです。

文化や育ってきた環境が違えば、「愛」についての、概念にも、理解にも、違いがある、ということなのでしょう。そして、私たちが「愛」だと思うものは、しばしば私の利己心の投影でしかない、ということがある、ということです。

ですから、「愛する」、ということは実は難しいことなのでしょう。

 

パウロは、キリスト者として、そういう難しい「愛」を生きるために、「たゆまず祈りなさい」と奨めています。

「愛を生きる」とは、たゆまず祈ることの内でしか実現できない、とパウロは実感していたのでしょう。ですから、私たちは、どれだけ他者のために祈っているだろうかと、ふと、振り返ってみる必要があるのでしょう。

ところで、喜ぶ人と共に喜ぶことと、泣く人と共に泣くことと、どっちがより難しいことなのでしょうか。私たちは、そのこともこの2月に、深く考えてみたい、と思うのです。

(2月の「園だより」から)

(2019/03/03週報掲載)

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主よ、わたしの言葉に耳を傾け つぶやきを聞き分けてください

(詩 5 篇 2 節)

 

詩人は、嘆きの内にある。

嘆かざるを得ない内容はわからない。詩人は深い嘆きの中にあるので、「朝ごとに、御前に訴え出て」(4節)祈らなければならない。詩人は、朝ごとの祈りを、神殿での祈りを、「わたしの王、わたしの神よ」(3節)と始める。

 

詩人は、「わたしの王、わたしの神よ」と祈る。

古代の詩編の編集者は、ヤハウェにこのように祈り得るのはダビデその人に違いないと思い、この詩に「賛歌。ダビデの詩」という詞書を与えたのだろう。

でも同時に、詞書に、「指揮者によって。笛に合わせて」と記されているように、この詩は、神殿で、朝の礼拝毎に歌われたのかも知れない。もしそうであるならば、この詩は、神殿で祈るものは、誰でも、ヤハウェを「わたしの王、わたしの神よ」と呼びかけることができる、と私たちに示す。

 

つまり、神の前に立つ者は、深い嘆きを抱えて、朝ごとに神の前に立とうと願う者は、誰でも、地上の王、権威、位階を越えて、ただ神のみを「王」とする神の秩序のうちに生きる者なのだ、とそのよう宣言されている。

そして私も、この世の秩序ではなく、神の秩序のうちに歩むのだと確信し、そのように歩み出す時に、神を「わたしの王、わたしの神よ」と呼ぶことができる、そのように招かれる。

 

詩人の祈りは、「つぶやきを聞き分けてください」というもの。

「つぶやき」は、口語訳では「嘆き」。文語訳では「わが思(おもひ)」。月本先生は「呻き」と訳すことを提案しておられる(「詩編の思想と信仰Ⅰ」)。

詩人の祈りは、明瞭な形にならない。

嘆きが深く、その祈りは、心の思(おもひ)は、十分に吟味された思索には程遠いまま口から出されて行く。思いは乱れ、よって言葉もまた「つぶやき」にしかならない。「呻き」にしかならない。

ハンナが「主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました」(サムエル記上1 章 15 節 )と言うように、心の思いを注ぎ出すような祈りは、「つぶやき」、声にならない「呻き」。

 

そして詩人は、そのような乱れた祈りに、神は耳を傾けてくださると、信じている。

そう、神は私の心の呻きを一番よく知っていてくださる。語り得ない、言葉にしないと決めた、声に出すことのできない「つぶやき」を、「呻き」を、主は聞いてくださる。

そしてハンナにエリが言うように、私たちは、私に語られる主の御声を聞く。「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことを叶えてくださるように」(サムエル記上1 章 17 節 )。キリストは、そのように必ず語りかけてくださる、私に。

(2/1(金)の「ローズンゲン」の旧約日課から)

(2019/02/03週報掲載)

 

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あけましておめでとうございます。

主の降誕2019年を主が御手の内においてくださり、その豊かな恵みの内を歩むことができますように!

 

伊勢原教会で湘北地区の新年合同礼拝がもたれるのは2011年以来のことだと思います。地区の牧師先生方にもずいぶんと変化がありました。また、教会・伝道所を取り巻く状況も、変わってきています。日本キリスト教団の教勢はずっと右肩下がりです。2019年度の教団予算は、とうとう収入が(伝道資金負担金を含んでなお、)3億円を下回ります。

 

そして、それぞれの教会・伝道所の財務的な内実も厳しい状況です。

でも、私たちの内に不安はありません。だって、教会はもっと大変な時代を経験してきました。教勢が伸び悩む、それどころか落ち込む、ということを、大なり小なり体験して来ました。そしてそれでもなお、教会は、御手の内を歩んで来たのですから。

 

今日、1月1日は12月25日から8日目です。

聖餐式の中の「特別序唱(特別叙唱)」には、「ことに、聖霊の働きによって,御子をおとめマリアから生まれさせ,まことの人としてくださいました。これは御子がその汚れない人性をもって,私たちのすべての罪をきよめてくださるためです」との祈りがあります。まだ、生まれて8日目のイエスさま、でも、無力なこのお方こそが、「私たちのすべての罪をきよめてくださる」方なのです。

 

私たちが信頼し、唯一と確信しているこの方は、今日、まだ命の8日目を歩んでおられます。

でも、その方は「私たちのすべて」なのです。この方が、のちのち偉大なお方になるから私たちは信頼しているのではないのです。

この方が、この方であるから、私たちはこの方に信頼をよせるのです。そのことの素晴らしさに気づいて行けたらと、今日、思うのです。

 

教会には、争いや分裂、悲しみや痛みがあります。でも、そういう全てを私に預けなさい、と言ってくださる方は、まだ生まれて8日目の赤ちゃんなのです。

そして、ここに真理があります。

私たちが誰かの庇護を得たいと思う時、その人は大きな力を持っている、と私たちに感じられる人なのでしょう。でも、本当に私たちが唯一頼りにする方は、無力の極みにおられるのです。

そうです。

私たちの人間としてのモノサシ、基準、判断を、私たちが知恵だと思っているものを、私たちが打ち捨てた時、私たちは、無力の極みにおられるこのイエスこそが、「私のすべて」なのだと気づくのです。人の思い、人の願い、人の思考によって霞んでる視野を、それらを打ち捨てて視界を開いていただく時、私たちは十字架以外何も知るまい、と祈る自由を与えられるのだと思うのです。

 

2019年、私たちが無垢な信仰を歩み、キリストを信じる真理へと深く、確実に、主によって招き入れていただく事を願って行きたいとこそ思うのです。

(2019/01/01湘北地区新春聖餐礼拝用書掲載)

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ユダの町に行った

(ルカによる福音書 1 章 39 節)

 

マリアは、駆け出して行く。きっと誰にも知られない内に。誰にも咎められない内に。マリアが駆け出して行く先を、ルカによる福音書は「ユダの町」と記す。マリアは、ヨセフのところではなく「ユダの町」へと行く。マリアは自分の身の変化を知っている。そして、エリサベトのところに駆けて行く。身の中で起こっている奇跡を確かめに。御言によって新しくされる、ということは、古い出会いにこだわることをやめる、ということ。御言によって新しくされる、ということは、御言を聞いて新しくされた人との出会いを切に望むということ。だからマリアは駆けて行く。人生を賭けて駆けて行く。それにしてもマリアは、この時、「男は頼りにならない」と即断している。ヨセフだって御言葉を聞いているのに。ヨセフだって、御言葉の前に立っているのに。マリアは、自分と同じように今、御言葉を生きているエリサベトのところに走って行く。

(2108/12/23週報掲載)