「パンを持ってくるのを忘れ」
(マルコによる福音書 8 章 14 節)
☆ 弟子たちは、舟に乗るのにパンを持ってくるのを忘れた。
もっとも、向こう岸に渡るだけだから、どうしてもパンを持っていないといけない、ということではない。
でも、ペトロは、アンデレに始まって11人に、
「パンを持ってきたかい?」と尋ねると、
「水筒は持ってきた」とか、
「クッキーなら持っています」とか言うわりには、
誰もパンを持っていない。
弟子たちみんなに聞いてしまって、残っているのはイエスさまだけで、
「あのー、イエスさまは?」と言うと、
「パンなら1つある」とイエスさまがお答えになった。
そんな場面。
☆ そしてイエスさまは、弟子たちに、次の15節で、
「ファリサイ派の人々のパン種と、ヘロデのパン種に気をつけなさい」、と
そう言われる。
不思議。
弟子たちは、“今、パンを持っていない”、ということに気持ちの中心がある。
なのに、イエスさまは「パン種」の話しをなさる。
「パン種」は、今、ここでパンにすることができるわけではない。
「イエスさま、話しがずれています」
と、言いたくなるような、そういう雰囲気。
弟子たちが“パンがない”ということで頭がいっぱいの時に、
イエスさまは、弟子たちに「パン種」のことで注意を喚起する。
イエスさまは、私たちが、
自分の関心、自分の思いにだけとらわれて、にっちもさっちも行かなくなっている時に、
「どうしよう、あれがない」、「これができない」、「あれがないと無理」、
と思っている時に、
全然関係のないこと、と私たちが思ってしまうこと、を告げられる。
本質的なことを、弟子たちに、私に、告げられる。
そういうことではないかと思う。
☆ ところで、マルコによる福音書は、「ファリサイ派の人々のパン種」、「ヘロデのパン種」の意味をはっきりとは説明しない。
ここでは次のようなことが問われているのではないか、と私は思う。
それは、「ファリサイのパン種」、「ヘロデのパン種」では、
“満腹”はしない、
ということ。
弟子たちは、イエスさまとのこの後の会話で、パンが12のかごにいっぱいになったこと、あるいは7つのかごにいっぱいになったことばかりをイメージしている。イエスさまは、パンを増やしてくださったのだ、と。
☆ イエスさまが弟子たちに問われている本質は、そこではない。
イエスさまが、弟子たちに、そして私たちに問われるのは、パンを食べて
“満腹”したではないか、
ということ。
「ファリサイのパン種」、「ヘロデのパン種」では、“満腹”しない。
ただ、イエスさまのパンだけが、私たちを“満腹”させる。そのことに気づいているか、と問われている。
☆ と、
イエスさまが弟子たちにお話ししているうちに、
舟は向こう岸についてしまった。
やっぱり、舟の中で、パンを食べる、という時間はなかった。
☆ ところで、
文語訳は、8章14節をこう訳している。
「弟子たちパンを携(たずさ)ふることを忘れ、
舟には唯一(ただひと)つの他パンなかりき」。
イエスさまが「パンなら1つある」と言われたのは、ご自分のこと。
本当のパンが1つ、ここにある、ということ。
そのことに、短い舟でのこの道中で、気がつかないといけない。
イエスさまは言われる。
本当のパンが、食べれば絶対に、
“満腹”するパンが、
1つある、
そのパンは、この私の舟に、この私と一緒に乗っていてくださる、
ということに気がつかないといけない、と。
そのように、
イエスさまは、弟子たちにも、私にも、今日、語りかけてくださる。
(2017/02/05小礼拝での説教から)