2016年度 礼拝予定・行事予定

2016年度 礼拝予定

3月26日(日)四旬節第4主日《ラエターレ(喜び祝え)》礼拝

聖書  ヨハネによる福音書 9章 1-12節
説教  「目が見えるようになって、帰ってきた」  服部 能幸 牧師
讃美歌 308、297、305、446、43-3

3月19日(日)四旬節第3主日《オークリ(主に目を注ぐ)》礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 4章 23-26節
説教  「あなたと話をしているこのわたし」  服部 能幸 牧師
讃美歌 308、227、298、307、43-3

3月12日(日)四旬節第2主日《レミニスツェレ(主よ、思い起こしてください)》礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 3章 1-17節
説教  「夜、イエスのもとに来て」    服部 能幸 牧師
讃美歌 308、297、351、475、43-3

3月5日(日)四旬節第1主日《インヴォカヴィット》聖餐礼拝
聖書  マタイによる福音書 4章 10-11節
説教  「書いてある」   服部 能幸 牧師
讃美歌 308、539、530、284、77、83、86、43-3

2月26日(日)大斎節前主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 5章 48節
説教  「神の神殿」   新井 美穂 牧師
讃美歌 24、6、440、476、29

2月19日(日)顕現後第7主日礼拝
聖書  詩 97編
説教  「喜びを種蒔いてくださる」   服部 能幸 牧師
讃美歌 13(5,6節)、474、363、343、29

2月12日(日)顕現後第6主日 創立113周年記念日聖餐礼拝
聖書  マタイによる福音書 5章 17-37節
説教  「しかし。わたしは言っておく」   新井 美穂 牧師
讃美歌 13(4,6節)、4、192、475、81、83、86、29

2月5日(日)顕現後第5主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 5章 13-16節
説教  「あなたがたは地の塩である」   新井 美穂 牧師
讃美歌 13(3,6節)、424、576、534、524、83、86、29

1月29日(日)顕現後第4主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 5章 1-12節
説教  「幸いなるかな」   新井 美穂 牧師
讃美歌 13(2,6節)、210、153、529、29

1月22日(日)顕現後第3主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 4章 23節
説教  「あまねくガリラヤを巡り」   服部 能幸 牧師
讃美歌     13(1,6節)、289、441、528、250(5,6節)

1月15日(日)顕現後第2主日礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 1章 29-34節
説教  「知らない方」   服部 能幸 牧師
讃美歌 268、280、474、492、250(3,6節)

1月8日(日)顕現後第1主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 2章 15-21節
説教  「宿る前に」   服部 能幸 牧師
讃美歌 268、277、276、275、250(2,6節)

1月1日(日)降誕後第1主日聖餐礼拝
聖書  マタイによる福音書 2章 1-22節
説教  「別の道」   服部 能幸 牧師
讃美歌 268、278、266、259、250(1,6節)

12月25日(日)降誕祭聖餐礼拝
聖書  ルカによる福音書 2章 15-20節
説教  「話したとおりだった」   服部 能幸 牧師
讃美歌 246(1-3)、248、251、255、256、83、86、246(4-7)

12月24日(土) 19:00~ イブ キャンドル ライト サービス
説教  「貴き貧しさ」     新井 美穂 牧師
英国のキングス・カレッジの「A Festival of Nine Lessons and Carol」に準じた様式です。

12月18日(日)待降節第4主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 1章 18-25節
説教  「眠りから覚めると、」   服部 能幸 牧師
讃美歌 238(4節)、230、241、244、240

12月11日(日)待降節第3主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 11章 2-15節
説教  「荒れ野よ、」   服部 能幸 牧師
讃美歌 238(3節)、173、460、511、240

12月4日(日)待降節第2主日聖餐礼拝
聖書  マタイによる福音書 3章 1-12節
説教  「希望を持ち続ける」   服部 能幸 牧師
讃美歌 238(2節)、458、237、238、76、83、86、240

11月27日(日)待降節第1主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 24章 37-44節
説教  「目を覚ましていなさい」   服部 能幸 牧師
讃美歌 238(1節)、236、Ⅱ篇162、576、240

11月20日(日)終末主日「収穫感謝祭」全体礼拝
聖書  レビ記 19章 9-10節
説教  「分け合う喜び」   新井 美穂 牧師
讃美歌 (こ102)、419(こ122)、(こ101)、533(こ22)、64(こ24-2)、24(こ25)

11月13日(日)終末前主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 21章 5-19節
説教  「戦争(いくさ)と騒乱(さわぎ)との事を聞いた時」   服部 能幸 牧師
讃美歌 11、573、Ⅰ-379、361、47

11月6日(日)終末前々主日・召天者記念日・聖餐礼拝
聖書  ルカによる福音書 20章 27-38節
説教  「生ける者の神」   服部 能幸 牧師
讃美歌 11、472、385、382、78、18、83、86、42-1、47

10月30日(日)三位一体後第23主日・宗教改革記念日・礼拝
聖書  ルカによる福音書 19章 1-10節
説教  「背が低かった」   服部 能幸 牧師
讃美歌 11、378、482、521、47

10月23日(日)三位一体後第22主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 18章 9-14節
説教  「遥に立ちて」   服部 能幸 牧師
讃美歌 11、491、503、558、47

 

10月16日(日)三位一体後第21主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 18章 1-8節
説教  「われ神を畏れず」   服部 能幸 牧師
讃美歌 11、521、531、565、47

 

10月9日(日)三位一体後第20主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 17章 11-19節
説教  「九人は何処に在るか」   服部 能幸 牧師
讃美歌 11、580、574、548、47

 

10月2日(日)三位一体後第19主日・世界聖餐日礼拝
聖書  ルカによる福音書 17章 5-10節
説教  「からし種一粒」   服部 能幸 牧師
讃美歌 11、508、400、356、79、18、83、86、47

 

9月25日(日)三位一体後第18主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 16章 19-31節
説教  「もし、耳を傾けないのなら」   服部 能幸 牧師
讃美歌 11、573、543、533、46

 

9月18日(日)三位一体後第17主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 16章 1-13節
説教  「ごく小さな事に忠実な者は」   服部 能幸 牧師
讃美歌 11、577、558、540、46

 

9月11日(日)三位一体後第16主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 15章 1-32節
説教  「息子を見つけて」   服部 能幸 牧師
讃美歌 11、207、442、446、46

 

9月4日(日)三位一体後第15主日・振起日・聖餐礼拝
聖書  フィレモンへの手紙 4-7節
説教  「一人の人間として」   服部 能幸 牧師
讃美歌 11、458、497、505、76、83、86、46

 

8月28日(日)三位一体後第14主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 14章 1-14節
説教  「息子か牛が井戸に落ちた」   服部 能幸 牧師
讃美歌 11、560、528、494、46

 

8月21日(日)三位一体後第13主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 8章 14-21節
説教  「恵みにとどまる」   小西 淳 牧師
讃美歌 11、472、394、536、46

 

8月14日(日)三位一体後第12主日礼拝
聖書  エフェソの信徒への手紙 1章 3-14節
説教  「天地創造の前から」   溝部昂 牧師
讃美歌 11、345、577、516、46

 

8月7日(日)三位一体後第11主日 平和聖日聖餐礼拝
聖書  ルカによる福音書 12章 23-48節
説教  「小さな群れよ、恐れるな」   服部能幸 牧師
讃美歌 12、371、482、497、79、83、86、46

 

7月31日(日)三位一体後第10主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 12章 13-21節
説教  「神の前に豊か」   新井美穂 牧師
讃美歌 12、18、518、529、46

 

7月24日(日)三位一体後第9主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 11章 1-13節
説教  「祈る時には」   服部能幸 牧師
讃美歌 12、491、479、453、46

 

7月17日(日)三位一体後第8主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 10章 38-42節
説教  「あなたは心を乱している」   服部能幸 牧師
讃美歌 12、403、460、509、46

 

7月10日(日)三位一体後第7主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 10章 25-37節
説教  「御言葉をあなたのごく近くに」   服部能幸 牧師
讃美歌 12、281、438、464、46

 

7月3日(日)三位一体後第6主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 10章 1-12節
説教  「二人ずつ先に」   服部能幸 牧師
讃美歌 12、430、494、Ⅰ392、436、18、83、86、42-1、46

 

6月26日(日)三位一体後第5主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 9章 51-62節
説教  「イエスは振り向いて」   服部能幸 牧師
讃美歌 12、358、390、443、46

 

6月19日(日)三位一体後第4主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 9章 18-24節
説教  「日々、自分の十字架を背負って」   服部能幸 牧師
讃美歌 12、452、474、492、46

 

6月12日(日)三位一体後第3主日礼拝・花の日こどもの日全体礼拝
聖書  マルコによる福音書 10章 13-16節
説教  「子供のように」   服部能幸 牧師
讃美歌 (こどもさんびか改訂版)114、129、140、24-2、32

CSの子ども達と一緒の合同礼拝ですので、9:00に開始です。10:15からは小礼拝が行われます。

 

6月5日(日)三位一体後第2主日聖餐礼拝
聖書  ルカによる福音書 7章 11-17節
説教  「もう泣かなくともよい」   服部能幸 牧師
讃美歌 12、355、394、402、411、83、86、46

 

5月29日(日)三位一体後第1主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 9章 10-17節
説教  「日が傾きかけたので」   服部能幸 牧師
讃美歌 12、352、363、393、46

 

5月22日(日)三位一体主日礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 16章 12-15節
説教  「人間は何もの」   服部能幸 牧師
讃美歌 12、169、345、401、46

 

5月15日(日)聖霊降臨祭(ペンテコステ)聖餐礼拝
聖書  使徒言行録 2章 1-11節
説教  「聞いている言葉」   服部能幸 牧師
讃美歌 14、206、341、343、524、83、86、42-1

 

5月8日(日)昇天後主日(ききたまえ)礼拝
聖書  使徒言行録 1章 1-11節
説教  「話し終わると」   服部能幸 牧師
讃美歌 14、152、336、480、42-1

 

5月1日(日)復活後第5主日(いのれ)礼拝
聖書  使徒言行録 15章 1-11節
説教  「対立と論争」   服部能幸 牧師
讃美歌 14、596、502、425、477、83、86、42-1

 

4月24日(日)復活後第4主日(うたえ)礼拝
聖書  使徒言行録 14章 21-28節
説教  「主に任せた」   服部能幸 牧師
讃美歌 14、417、227、173、42-1

 

4月17日(日)復活後第3主日(よろこべ)礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 10章 27-30節
説教  「声を聞き」   服部能幸 牧師
讃美歌 14、209、323、436、42-1

 

4月10日(日)復活後第2主日(主のあわれみ)礼拝
聖書  使徒言行録 5章 27-42節
説教  「人間に従うよりも、神に」   服部能幸 牧師
讃美歌 14、358、328、167、42-1

 

4月3日(日)復活後第1主日(新生)聖餐礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 20章 19-31節
説教  「見ないのに」   服部能幸 牧師
讃美歌 14、51、329、363、375、83、86、42-1

 

 

【余yoteki滴】

創立112周年をおぼえて

– 主はわたしの命の砦 -(詩27篇)

日本キリスト教団伊勢原教会は、創立112周年を迎えました。

飯田角蔵の、或いは、波濤を超えて明治期日本に、

福音伝道を願う北米合衆国の諸教会の祈りに支えられて来日した、

F.C.クラインをはじめとする宣教師たちの働きによって

「伊勢原美普教会」

(伊勢原教会は、「メソヂスト・プロテスタント教会(美普教会)」によって創建されました)は

設立されました。

そして、今日に至るまで御手のうちにこの教会をおき、導き、護られた主に感謝いたします。

この112年の間に、

教役者、教会員、その周辺におられた人たち、と多くの人々の祈りと献身とがあったことを覚えます。

キリストは、御言葉を、人の思い、人の手を通して実現されます。

主の御旨は、なにか中空に浮かんでいるような、非人格的な抽象概念ではありません。

主の御旨が成る、成就するということは、必ず、

私たち「人」を通して、その祈りを通して実現なさるのだと、私たちは知っています。

今日(2/14)、

「ローズンゲン」に示されている御言葉は、詩27篇1節から選ばれた、

「主はわたしの命の砦

わたしは誰の前におののくことがあろう」

です。

実に、創立記念日にふさわしい聖句だと思います。

主は、この伊勢原に「命の砦」をお建てくださった、私たちは、

はっきりそのように確信します。

詩編の詩人は、「わたしは誰の前におののくことがあろう」か、と言います。

主が、「わたしの命の砦」である以上、

いかなるものの前にも「おののかない」と詩人は歌うのです。

ですから詩27篇は、続けて2節以下で、

「さいなむ者が迫り…

彼らがわたしに対して陣を敷いても

わたしの心は怖れない…

わたしには確信がある」

と、

その信仰を宣言することが出来るのです。そして、

その信仰の確信のうちに、

「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。

命のある限り、主の家に宿り

主を仰ぎ望んで喜びを得

その宮で朝を迎えることを」

と、

歌うことができるのです。

私たちも、112年目を迎えた伊勢原教会に集う者として、草創期、

多くの人たちの祈りが、この地に教会を建てたことを覚え続けて行きたいと思います。

主の御旨を確信して、ここに「命の砦」をたてた信仰の先達に、その系譜に連なる者として、

御言葉を証しして歩む群れとして強められて行きたいと、主に願い続けて参りたいと思うのです。

創立記念日は、新しい始まりです。

今日、この日から、私たちは、伊勢原教会の新しい一歩を、主の導きを確信しつつ歩み出して行きます。

【余 yoteki 滴】

中高生と一緒にマタイによる福音書27 章 32 – 44 節を読む


イエスさまは、十字架におかかりになる。イエスさまを真ん中にして、三本の十字架がたっている。
イエスさまの左右の十字架についている人も、周りの人と一緒になって(イエスさまのことを)ののしった、って書いてある。
自分も死んでいこうとしているのに、一緒に死のうとしている者をののしる。こういうことも、人間には起こるのだ、ということも心に留めておいて欲しい。

ゴルゴタという丘に行くまで、
イエスさまは、十字架の横木を担いで行くのだけれども、途中、もう持っていられなくなってしまって、キレネ人シモンに担がせた。
彼は、たまたま通りかかった「お上りさん」だろうか?
このキレネ人シモンという人が、

今年は過越の祭りさ行くべぇ。荷物もつくったし、笠もかぶったし。行くべぇ。
ついたべぇ。ははっ、ここがエルサレムの町か。大きいねぇ。
この橋を渡るのか。何、小銭を払うのか、財布から、こうやって、小銭さ出して。へい、これが渡りちんでございますだ。何ですって? 橋番さま、「渡りちん」ではなくて、「橋税」と言え、ですか。へいへい、さようでございますか。では、めえります(参ります)で。
ここが神殿か。ははっ、大きいねぇ。スマホで撮るべぇ。

ってやって来た、のだろうか。
もちろん、この日は、すっごく「お上りさん」が多い日。
過越の祭りの日なのだから。だから、
たまたま、“担がさせられちゃった”、ということもあるかも知れない。でも、
不思議でしょ?

今日の箇所(マタイによる福音書27章32-42節)に出て来る登場人物は、まずシモン。それからイエスさま。それに、兵士たち、左右につけられる「強盗」、祭司長たち、群衆たち。つまり、
この場面には、たくさんの人たちが出てくる。ところが、
この箇所で、名前が出てくるのは、(イエスさま以外では、)このキレネ人シモンだけ。
ねっ、ただの「お上りさん」だろうか?
ひょっとすると、イエスさまに会いに来た人?

ヨハネによる福音書(12章20節以下)には、
(「過越の祭」の前に、)ギリシア人が何人か会いに来た、ということが書いてある。この人も、
“イエスさまに会いたい”、と思っていたから、
イエスさまが十字架の横棒を担いで歩いておられた時に、思わず群衆の前に出てしまったのかなぁ、と私は、
思ったりする。

彼が、この後どうなったか、聖書はなにも書きません。でも、
マタイによる福音書は、“十字架と出会う”、とは、こういうことなのだ、と言っているのだと思う。
“イエスさまと会う”、ということは、
“イエスさまの十字架に出会う”ということなのだ、って。
ほんの一時(いっとき)なのだけれども、
イエスさまのかわりに十字架を担う、ということが、
“イエスさまに会う”、ということなのだ、
と聖書は教えている、と思う。私たちも、
このキレネ人シモンのように、
“イエスさまに会いたい”、と願って、そして、
イエスさまの十字架の、ほんの一端でもいいから担わせていただけたら、いいなぁ、と思うのです。

(祈り)
主イエス・キリスト。あなたは、私たちのために十字架についてくださる方。
主イエス・キリスト、あなたは、十字架を担げ、とお命じになる方。
十字架におかかりくださるキリスト、あなたを仰ぎ見て、あなたに会いたいと願いつつ、歩ませてください。
(2015/11/15「小礼拝」での奨励から)

【余 yoteki 滴】

“中高生と一緒に、マルコによる福音書2章1-12節を読む”


直前の、マルコ福音書1章45節、
イエスさまは、「重い皮膚病」の人を癒しされた後、「町の外の人のいない所におられた」。
イエスさまは、町に入る事ができない状況になっていた。
それから「数日後」、(少しは、ほとぼりが冷めたのだろうか?)
イエスさまは、カファルナウムの、“ある家”におられた。
が、こんどは「戸口の辺りまですきまもないほど」になってしまった。それで、その集まって来た人たちを前にして、
イエスさまは、「御言葉を語っておられた」(2章2節)。


「重い皮膚病」を癒してもらった人は、
「そこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」と書いてある。
この1章45節の「出来事」と、2章2節の「御言葉」は、同じ単語。
イエスさまが「御言葉」を語るというのは「出来事」なのだ、ということ。
イエスさまが来られたということが、「出来事」そのもの、なのだということ。
イエスさまが「御言葉を語っておられた」というのは、「福音」を語っておられた、ということであり、
イエスさまが来られたという「出来事」そのものが、「福音」なのだ。だから、
イエスさまと出会うという「出来事」が、私なら私の身に起こる、
キリストと出会うという「出来事」が事実になる、というのは、
「御言葉」としての「福音」に出会うという「出来事」が、私に、
起こっているのだ、ということ。


2章1節からの人は「中風」(体の自由が利かない状態)だったと書いてある。
四人の人に床(とこ)ごと、連れて来てもらう。彼は、
イエスさまに会いたい、と思った。だけれども、人があふれていて行かれない。
遅れてやってきたのかなぁ。
もう、とっても家には入れない。
そうすると、彼らは何をするのかと言うと、
イエスさまがいるあたりの屋根を壊した、と書いてある。この下に、
イエスさまがいる、と狙い定めて屋根をはがした。そうして、
イエスさまのいるところに彼を降ろす。


その四人の信仰を見て、とは書いていないのだけれども(聖書は「その人たちの信仰」)、
イエスさまは、四人の信仰(信頼)を見て「子よあなたの罪は赦される」と言われる。
山室軍平はここのところの説教題に、「四隅の務め」とつけておられる(『民衆の聖書』)。
四隅にこそ意味がある、重要なのは、中央にではない、ということ。
乱暴この上ないんだけれども、この四人は、イエスのもとに連れて行く、ということに忠実。


この四人も、イエスさまのところに降りて来た一人も、名前が記されていない。
無名の人たち。
この四人は誰なのだろうかって、ちょっと気になる、私は。
この家は、たぶん、ペトロの家だと思う。そして、
ペトロが、誰か判らない、彼が知らない四人の男達が、自分の家の屋根をべりべりと壊し始めたら、はたして、気の短いペトロとアンデレが黙ってみていただろうかねぇ。だから私は、
この四人は、ペトロとアンデレとヤコブとヨハネだったのではないかなぁ、と思う。
二組の兄弟は、屋根に上がると、
「イエスさまは、きっとここだよ、大丈夫」なんて、ごにょごにょと相談してね、
「大丈夫、俺んちだから壊しちまえ」、ってね、ごそごそって壊し始めてね、
落っことしちゃいけないんだからって、するするって水平を保って、
イエスさまのところに「中風」の友達を、自分では動けない友を、自分からは動くことが出来なくなった友人を、降ろして行く。
四人は落とさないように、そっと、
乱暴に屋根をぶち抜いたあとだけれども、そっと、
イエスさまのところに降ろして行く。
1章40節以下に出て来た「重い皮膚病」の人は、「律法」という、彼を縛っていたものを
打ち砕いて、押し破って、
イエスさまの前に出て来る。
そして、今日の彼らは、「屋根」という現実のものなのだけれども、
打ち壊して、降って行く。四人で一人を降ろして行く。
イエスさまのいる低みに、一人を降ろして行く。


イエスさまって、ホコリをかぶってくださる方だなぁって、私は、本当に思う。
イエスさまのところに、屋根の部材と、大量のホコリとが舞い降りて来た。
イエスさまは、ホコリだらけになって、待っていてくださる。
イエスさまのところに行く、というのは、普通(どちらかと言えば)、のぼって行くイメージ。
天の御国へ、
エルサレムへ、
十字架のキリストのもとへ、私たちは、
目を上げて従って行く。ところが、
イエスさまに近づく、イエスさまのところに行く、というのは降って行く、という事なんだって、ここでは教えられる。
イエスさまが、いちばん底辺にいる。その、
いちばんホコリをかぶってくださるイエスさまのところに降って行く。それが、
イエスさまと出会う、という事なのだ、とマルコ福音書は言う。


キリストと出会う、ということは、低く低く、一番の低みまで降ろされて行く、ということ。
そして、一番の低みまで降ろされて、
イエスさまに出会う、という「出来事」を経験すること。その時、私たちは、
立ち上がることができる。
イエスさまと出会う、という「出来事」は、今まで、
動いてはいけないんだ、と思っていた束縛から解放される、ということ。
この人を、私を、縛っている結び目を、いちばん下で待っていてくださる
イエスさまがほどいて、自由にしてくださる、っていうこと。
いちばん下にいてくださる、
一番の低みにいてくださる主イエス・キリストに出会って、
「御言葉」に出会って、一番の低みから歩み出して行く、そういう者と私たちも
されて行きたい、と思う。
(2015/11/01「小礼拝」での奨励から)

【余yoteki滴】

“中高生と一緒に、マルコによる福音書1章40-45節を読む”


昨日の「道灌祭り」(今年は10/17-18)での出来事です。
午後、街を歩いていると、
「先生、今日はもう召し上がっているんですか」、
って言われてしまいました。
「召し上がっている」と言っても、別にお汁粉ではなくて、「(ビールやお酒などのアルコール類を)一杯、飲んでますか」という意味です。

実は、このところ体調が悪いんです。ブタクサ(の花粉)とかが飛んでいるらしい。先日、ドクターに「薬が合わないわねぇ」って言われてしまって、「処方を変えましょう」っていうことになったんです。
ただ、漢方だから、効果が出るのが早いか、ブタクサの花粉が飛ぶのがやむのが早いか、というと、これはちょっと、難しい。
そんなわけで、
「先生、もう召し上がっているんですか」
と言われても、いちいち、体調が、とか、アトピーが、とか、喘息が、とか話すのが面倒になってしまって、えへへ、とか言っているだけなんです。

ここ(マルコによる福音書1:40-45)には、「重い皮膚病」の人が出て来ます。
「重い皮膚病」とは一体、どんな「病い」か、ということも(重要な問題として)あるけれども、律法には、旧約聖書には、「重い皮膚病」になったら隔離しなさい、というようなことが書いてある。
ですから、この人は、
“生きているけれども生きていない”
んです。
その彼が、律法を乗り越える覚悟をして、イエスさまの前に出て来て、ひざまずいて、「御心ならば」と祈ります。相当に勇気がいる行動です。
また、イエスさまも、この人と相対して、しかも「深く憐れんでその人に触れ」るわけですから、あきらかな律法違反ということになります。

「重い皮膚病」の人を共同体の外に出す、というのは、人々を守る、共同体を守る、ということ(のための処置)です。それは、生きているその人を、生きているままで殺すことで、その(「重い皮膚病」の)人以外の共同体を助けることができる、という考え方です。
感染は防げるけれども、その人は、
“生きていても死んだ人になる”
ということです。

この人は、その人の立場から言うと、
“触れてもらってはいけない”、
そういう生き方をしなさい、と律法によって言われている、ということになる。
ところが、彼は、
触れてもらうために出て来る。
イエスさまも、彼に「触れ」たって書いてある。
律法に従って生きて来た人たちは、本当にびっくりしたと思います。もっとも、この人が近づいて来た時に、お弟子さん達も含めて、誰も彼も、クモの子を散らすように逃げてしまっていたことでしょう。
イエスさまだけが彼を待っていた。
ただお一人、そこの場に、彼が出て来るところにいてくださる。

「触れる」、ということは共同体への回復です。
“生きているけれども死んでいる”、という状態から、
“生きているから生きている”という状態に、
この人を、イエスさまが、回復してくださる、ということです。

ところで、私は、一向に清くしてもらえないなぁ、と思うんです。どうしてだろうねぇ。不思議ですよね
たぶん、ボクはね、イエスさまの前に跪いていないんだと思います。彼は、跪いて祈るわけです。ところがボクは、(跪いたとしても、)せっかく跪いたんだから、あれもこれもお願いして、と思うわけです。でも、そうじゃない、と聖書は、言うんです。
ここが、信仰の難しいところだと思います。
この人は、律法というものを押し破って、「御心ならば」と祈るわけです。ただあなたの御旨なら、と祈るんです。
そして、キリストは、その彼に手をおいて癒してくださる。
そのような、待っていてくださるキリストを信じる、というのが信仰なのだろうと思うのです。

祈ります。主よ、あなたの御前に、まっすぐ歩み出して行くことができますように。
(2015/10/18「小礼拝」説教から抜粋)

【「祈りと行いのために」 – 時代への祈り – 】

主よ、
あなたが来られたのは、世界の平和と和解のためです。
教会は、
そのことを覚え、
主の栄光を讃えます。

今、
教会は、私たちが暮らすこの列島での政治的情勢を、
深く直視して行く、時代に対する責任を、
主に求められています。

それ故、
私たちは、祈りと行いとをもって、
主よ、
あなたに御旨を尋ねます。

主よ、
あなたのまことの平和のために祈り続けさせてください。

祈り続けるすべての人と連帯させてください。

行いをもって信仰を示すすべての人と連帯させてください。

祈りと行いとを強め、
教会の信仰を支えてください。

繰り返し祈ることを、

繰り返し行うことを、

無力だと感じさせるサタンの誘惑を、
取り除けてください。

主が、
教会の祈りと行いとを豊かに支えてください。

教会と私たちが、
祈りと行いとをもってこの世に証しして行くことを、
主が得させてくださいますように。

主イエス・キリストの御名によって アーメン。

【余 yoteki 滴】

「旅を急いだ」( 使徒言行録 20 : 16 )

パウロは、
「五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急い」でいた(使徒20 : 16)。
彼は、
「エフェソには寄らない」、と決める。
「アジア州で時を費やさないように」、と決める。
パウロは、
ルートを検討し、最短の旅程を、最善の航路を選ぶ。
でも、
パウロの「旅」は、
ミレトスの港で足止めとなる。
舟は、彼の思う通りには出航しない。
彼は、
ずっと決めていた。
五旬祭にはエルサレムで神殿に行きたい、と。
あの祭りの時に神殿で祈りたい、と。

でも、
舟はまだ出ない。

急いている気持ちを、
パウロが鎮めて、
沈黙して、
為すべきことを神に尋ねない限り、
パウロの「旅」は進まない。

パウロは、
鎮まって神の前に祈る自分を取り戻す。
否、
主によって、取り戻させていただく。
パウロは坐す。
神が決めたもう「旅」の時が、
人が思い定めた時刻表に先立つ、ということを
思惟するために、
ミレトスで。

【 些事 saji-bibou 備忘 】

「 ネコ 」

先日、
園庭に陥没箇所が発生した時のこと。
これから重機を入れて本格的に掘削を開始する前に、職人さんたちは、
牧師に、
「祈ってくれ」と、言う。
ある意味しごく当然のことで、
特に、土地に重機を入れる業者さんは、“信心”深い。
それというのも、この列島が属する東アジア漢字文化圏の民俗では、
土地は、カミに属するものであって、ヒトに帰するものではないから。
しかも、これから削(ほ)るのは、教会の土地、“境内地”なのだから。
そして、
そういう“神事”にきちんと時間をとれる職人さんは、
私の経験からいうと、仕事が丁寧で迅速。

聖卓の前で、祈りの時を持った。

さて、これからどうするか、
と検討していた時のこと。

当然のことだけれども、
掘れば、埋め戻さなければならない。
そうなると、
掘削して地層を撹拌してしまうわけだから、
掘ったところだけ、簡単な言い方をすれば、周囲と固さが違ってしまう。
そこで、
「転圧機」という機械で圧力をかけて固めるのだけれども、
人工的に圧力をかけても、かけきれるものではないから、
埋め戻すと、どうしても土が余る。

「余るでしょうね」、という話しになり、
私は、
「まあ、ネコ一杯ぐらいだったら牧師館の裏に投棄でいいですよ」
と言った。
そうしたら、職人さんたちが、
“あれっ”
と固まってしまった。
おっと、素人考えだったか。
「ネコ一杯ぐらいじゃあ済みませんか?」と、重ねて尋ねると、
「いや、そこじゃなくて」と、彼ら。
普通、素人さんは「ネコ」は言わない、と言われてしまった。
ああ、そっちか。
「ネコ」とは一輪車のこと。発掘の現場でも、一輪車は「ネコ」と呼ぶ。
そのことを説明しようかなと思っていると、
目の前を、
顔見知りの黒と白のブチの猫が、
悠然と通り過ぎて行った。

余 yoteki 滴(8月16日)

【「終戦記念日」を覚えて – 祈り – 】
8月15日。
1945年8月15日から70年。
私たちは、この島国の自然の美しさを愛するがゆえに、
二度と焦土と化す戦争に突き進む国としないことを祈ってきました。
そして今、
主が創られた被造世界にある全ての生命(いのち)と共に、
この敗戦を覚える日を、真に「終戦」の日としてください、
と強く祈ることを得させてください。
この世の中の、
あらゆる戦争、紛争、武力衝突、軍事介入の「終わりの日」と、
主よ、あなたがしてください。
私たちが、
あなたの御旨を深く受けとめ、
地域、国家、民族というこの世の枠にとらわれることなく、
広く、全世界に主の御名による平和が実現することを、
祈り続けられるようにしてください。
私たちを、御旨に聴きつつ歩む群れとして整えてくださいますように。

余 yoteki 滴 (8月9日)

【長崎の日を覚えて – 祈り – 】
この朝(あした)、70年前の長崎への原爆の投下を覚えて祈ります。
世界の平和と、核廃絶への祈りを深める教会の祈りを、かたく確かなものにしてください。
私たちの祈りが、世界中の平和を求める祈りに連なり、キリストにある一つの祈りになるように、主がしてください。
そして、御旨に聴きつつ歩む群れとして整えてくださいますように。