余 yoteki 滴

「主の祈り」を祈る

 

「キ保連」(キリスト教保育連盟)の3月の聖句は、マタイによる福音書の最後の言葉です。ご復活のキリストが弟子たちに告げる、マタイによる福音書におけるイエスさまの最後の言葉です。

そこでイエスさまは、お弟子さんたちに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28章20節)と言われます。でも、イエスさまはご復活から40日後に、みんなの見ている前で天に上げられ、私たちには見えなくなってしまいます。

 

その時、天を見上げていた人々に、天からの使いはこう告げます。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒言行録1章11節)。この天使の言葉は驚きです。イエスさまがもう一度おいでになる、とはどういうことなのでしょうか。この時、集まっていた人たちもやっぱりこの言葉に驚いたと思います。

 

そして、驚いた人々はどうしたのかというと、「彼らは皆、婦人やイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒言行録1章14節)と聖書は記すのです。

では、この時、彼ら彼女たちはどう祈っていたのでしょうか。

私は、この時、彼ら彼女たちが、「これだ!」と思い出し、祈っていた祈りは、「主の祈り」だと思うのです。イエスさまが、いつでもこのように祈りなさい、と教えてくださった「主の祈り」が、この時、彼ら彼女たちの祈りの生活の中心、信仰の中心となったのです。そしてそのことは、今でも変わらないのです。

 

*「主の祈り」は、聖書の中では、マタイによる福音書6章9節以下とルカによる福音書11章2節以下に出ていますが、年長組が覚えるのは、そして教会で祈られ続けているのは、祈りの形として整えられ、教会が継承してきた「主の祈り」です(「讃美歌21」に、また「こどもさんびか改訂版」にも載っています。ご参照ください)。

(「園だより」3月号より、一部修正)

(2019/03/17週報掲載)

 

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