余yoteki滴

(2019年度の聖句と標語)

○聖句  主御自身があなたに先立って行き、

主御自身があなたと共におられる。 (申命記31章8節)

○標語  主なる神が、いつでも共にいてくださる恵みに生きる。

(2019年3月17日総会議決)

 

2019年度、伊勢原教会は、上記の聖句、標語を掲げて歩みたいと願っています。

上記の聖句は、モーセがヨシュアを呼び寄せて語る言葉の一部です。

 

モーセは、出エジプト以来の「全イスラエル」の前で、「もはや自分の務めを果たすことができない。主はわたしに対して、『あなたはこのヨルダン川を渡ることができない』と言われた」と語り始め、そしてヨシュアがこれからは「全イスラエル」を率いて行くということを語り、ついでヨシュアに語りかけます。「強く、また雄々しくあれ」と。

 

つまり、ヨシュアも「全イスラエル」もぜんぜん、強くも雄々しくもないのです。

むしろ、モーセが“もう私は無理”と語ることに恐々とし、前途への不安や、将来への暗い予想に打ちのめされようとしています。モーセの「強く、また雄々しくあれ」は空手形のようにしか聞こえません。

 

でも、モーセの「元気」、「安心」、「笑顔」の根拠は主なる神にのみあるのです。

大丈夫、いつでも神さまは一緒だから、とそう言うのです。

神さまが一緒、ということは、では、どういうことなのでしょうか。

モーセは、「主御自身があなたに先立って行」かれる、と語ります。神さまが一緒、というのは、私の前を主が先立って歩まれる、ということなのだとモーセは語るのです。

 

私が大変な時に、私のかたわらにそっと来てくれる、とかいうような、なまやさしいことではない、とモーセは言います。

神さまが一緒ということは、時に、神さまのスピードで、神さまのペースで行くことを要求される、とモーセは語ります。神さまの後を、一所懸命、追いかけるような、そういう大変さを伴うのだ、と言うのです。

 

私たちが、まだまだだ、とか、これから準備をして、とか、じっくり計画を立てて、とか語り合っている時に、神さまはすでに出発された、と私たちは聞かされるのです。

そして私たちは、とるものもとりあえず、まさに「押っ取り刀」で先立たれる神さまを見失わないように追って行くのです。

 

主の恵みは、いつでも私たちに先行します。

恵みの足は速く、神さまは先へ先へと進み行かれるのです。

ですから、私たちは、驚愕します。

そして人間の、自分の、私の、予定や計画や打算が打ち砕かれるのを見ます。でも、モーセは言います。「主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない」と。主がどんどん先に行かれても、「恐れてはならない。おののいてはならない」のだと。

 

2019年度、私たちは、ここ伊勢原教会をお用いになる神さまの人知をはるかに超えた恵みに驚愕しましょう。

困難や、分裂や、悲しみの只中で顕(あれわ)される神さまが先立たれる恵みに気付きましょう。

そして祝福の満ち満ちていることの喜びを、孤独、無理解、中傷、挫折のその痛みの中で深く知りましょう。

キリストの十字架は、私の、教会の、弱さ、痛み、悲しさのうちにこそ打ち据えられ、高くしっかりと掲げられるのですから。

(2019/05/05週報掲載)

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