【 余 yoteki 滴 】

どうしてそうなるのか、その人は知らない。

(マルコ福音書 4 章 26 – 27 節)

 

「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する」( マルコ4 : 26 – 27 )と、キリストはいわれる。ある意味、投げやり。昼も夜も、畑の様子を見ては、一喜一憂する、という方が、「百姓」の姿ではないのだろうか、と私は思ってしまう。

キリストが、「百姓」の苦労を知らなかった、ということではないと思う。むしろ日常の事としてよく知っていた、と思う。日照りにおびえ、冷夏を嘆き、イナゴの大軍の前に藁を焚いて抵抗する、そういう「百姓」を見てきた。ご自身は土地を持たない、嗣業の地を失った手間仕事をするテクノーン(通常「大工」と訳されるギリシア語)であったとしても、村で、旅先で、そういうさまざまな「百姓」を見てこられた。

だから、「そうしてそうなるのか、その人は知らない」などとは、一片も思ってはおられない。「百姓」の苦労をご存知でなお、キリストは、ある日芽を出し、収穫まで育つ作物の不思議を語られる。

最後は、神のみ旨であるから、と。

神の御国は、そういうものなのだ、とキリストは言われる。

人の思い、努力、予定をはるかに超えた形で、あなたの前に「神の国」はある、と。も知っておられる。

(2018年7月1日の「週報」掲載)

余 yoteki 滴

「イスラエルの人々は主の命令によって旅立ち、主の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた」

(民数記9 章 18 節)

 

先日、ドクターに「体重をはかりましょう」と言われた。

はかってみたけれどもそんなに体重は減っているわけではない。ドクターは、まじまじと私の顔を見て、「やつれているわね」。

確かにアトピーはかなりひどい。これ以上ひどくすると、面差しが変わってしまう。その自覚はある。しかし、やつれていると、言われるとは。

 

で、民数記9:18(5月29日(火)のローズンゲンが上記の聖句)。

「イスラエルの人々は主の命令によって旅立ち、主の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた」。

 

「旅立ち」とは、“始まり”であろう。

人生にはいろいろな“始まり”(旅立ち)がある、と思う。

入学、社会人一年生、婚約、転職。時には「献身」などという“始まり”もある。

 

そして「宿営」とは“ひとつの終わり”であろう。

あるいはそれは、“休止”であるかもしれないし、“終止符”であるかもしれない。ちょうどそれは、「卒業」が次の「入学」や、あるいは、「就職」などの「始まりへの終わり」なのだとすれば、「宿営」もまた、始まりを内に含んでいる終わり、ということになろうか。“終わり”と“始まり”とは、だから、実は同義なのだ、と私は知る。

 

話しはもどるが、先日の血液検査の結果は優等生。

基準値のうちに収まっている。

中性脂肪なんて表彰されてもいい。

でもドクターは続けて言う。「本人が鏡で見るよりも、実際はもっとやつれているわよ」。

そうなのだ。最近続けざまに、疲れてませんか、とか、早く帰ってください、とか言われてしまう。明日一日潰れているのと、一ヶ月入院されてしまうのとでは、明日一日潰れている方がいいです、とか、言われてしまっています、とドクターに言うと、ほら、という顔をされた。

そして「能力で仕事をせずに、肌の状態で仕事しないと無理ね」、と言う。

 

そんなに一所懸命、あれこれとやっているのだろうか私は。

そう、すべての出来事が、“始め”であるとともに“終わり”であるのだとすれば、一つの“終わり”に向かって、つまり次の“始め”に向かって進み続けて行けばよい、それだけのことであろう。

 

民数記は、続く19節をこう記す。

「雲が長い日数、幕屋の上にとどまり続けることがあっても、イスラエルの人々は主の言いつけを守り、旅立つことをしなかった」。

だから、始まりの時も、始まりに至らない日常も、私ではなく主なる神がお決めくださるのだ、と確信して歩みたい。

余yoteki滴

「あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。

キリストはすべての支配や権威の頭です」

(コロサイの信徒への手紙2章10節)(その2)

 

この聖句を一年間かかげて、伊勢原教会は、2018年度をはじめます(3/18の総会で年間聖句として決議。なお、年間標語は、「主こそが私たちの信頼の源泉(みなもと) - 神とともに。喜びのうちに -」)。

2018年度、伊勢原教会は「厳しい」出発をします。現住陪餐会員は、80名を割り込みました。高齢化の波は教会を飲み込もうとしています。日本キリスト教団がゆっくりと長期低落傾向を続けて来たのと同じように、伊勢原教会もまた、困難な右肩下がりの時代を歩もうとしています。予算規模も、年々縮小しています。教会の「実力」というものを示す数字は、おしなべて小さくなってきています。では、それらの事実は、教会が「衰退」している、ということを現している、ということでしょうか。もちろん、教会の現実は「厳しい」です。☆

日本の教会は、何度も「衰退期」を経験してきました。明治20年代以降の国粋化の時代、第二次世界大戦後のキリスト教ブームが去った時代、70年代の「万博・東神大問題」で大きく揺れ疲弊した時代を歩みました。いつの時代も、今までにない危機でした。もちろん解散し、消滅した教会も多くあります。合併し福音の証しを続ける道を選んだ教会も、幾つもあります。分裂し、別々の道を歩む選択へと至った教会もあります。

では、衰退し、危機にある教会は、何をしたらいいのでしょうか。新しい人を教会に誘う、イベントを打って集客する、広告を出す、どれも打つべき手なのかも知れません。でも、それらは教勢を回復させる一時的なカンフル剤にはなるでしょうけれども、永続的な打開策とはならない、と思われるのです。例えば、「ひとりがひとりを誘う」というフレーズを掲げたとしても、たぶん、礼拝出席の増加は、目に見えるほどではないと思います。むしろ、“誘わなければいけない”という呪縛が、教会員を縛ってしまう、そのような悪影響の方が大きいかも知れません。

パウロがシラスと共にフィリピで投獄されていた時、彼らは、ただ、「真夜中ごろ、…賛美の歌をうたって神に祈って」いました(使徒言行録16:25)。パウロたちには、この時、一緒に牢にいる人たちに福音を告げ知らせよう、という積極的な意図はなかったのです。むしろ、パウロとシラスは、困難の只中にあって、全てのことを主にゆだね、主の栄光を讃美することだけを目的として歌い、祈っていました。周りの日人々の為ではなく、もちろん、自分たちの為であるわけもなく、ただひたすら、神の栄光と恵みに感謝をして、歌い、祈っていました。だから、その神への讃美の純粋さのゆえに、「ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」(同節)のでした。

ルカはその時「突然、大地震が起こり、…たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった」(26節)、と記します。本当に真心から神の栄光を歌う時、その祈りを主は無になさらない、とルカは記すのです。

私たちは、ここで伝道の不思議さとでもいうものを視ることになります。というのは、この時、パウロたちの有りようを、見て、洗礼を受けたのは、静かにパウロたちの歌と祈りに「聞き入っていた」囚人たちではないのです。「聞き入っていた」囚人たちではなかったのです。むしろ、パウロの祈りと讃美を聞かずに寝入っていて、地震が起こってはじめて「目を覚ました」(27節)看守とその家族でした(33節)。看守が救いへと入れられて行くのです。実に神さまのご計画は不思議です。

実に神さまのご計画は、私たちには悟り得ないものです。パウロたちは「聞き入って」もらう為に祈り、歌っていたのではありません。パウロたちは、聞こうとしない看守の救われることを、もちろん願っていないわけではないと思いますが、でも、第一として、いたわけではないと、そのように言うことができると思うのです。そして、そのような一思いを超えて、神さまの御旨はなるのだ、と使徒言行録は語ります。そのような神さまにのみ信頼する旅が、教会の旅なのだと。

私たちが、この「厳しさ」の中で、いえ、「厳しさ」の中であるからこそ、神さまに信頼して旅し続けるという信仰の本質を深く思って行くことができるとすれば、その時、この「厳しい」時こそが、深い主の恵みと時であると知り得るのだと、思うのです。

(2018年4月1日の「週報」に記載)

 

余yoteki滴

「あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です」

(コロサイの信徒への手紙2章10節)(その1)

 

この聖句を一年間かかげて、伊勢原教会は、2018年度をはじめます(3/18の総会で年間聖句として決議。なお、年間標語は、「主こそが私たちの信頼の源泉(みなもと) - 神とともに。喜びのうちに -」)。

伊勢原教会は、決して、この世、社会に対して大きな影響力を持つことのできるような集団ではありません。むしろ、無力で、無名な小さな信仰者の群れです。

でも、私たちは、小さくても、この世において無力でしかなくても、「キリストにおいて満たされている」という恵みによって私たちも満たされている、ということを知っています。そしてそのように知らされている者として、キリストこそが「すべての支配や権威の頭」である、との福音をこの世に対して明瞭に宣べて行く教会でありたい、と主に願っています。

何かをすること、何かを成し遂げること、何かであろうとすること、が目的なのではなく、教会は、キリストの満ち満ちておられるところであるから、キリストこそが私たちを器として用いて、この世の中に福音の良き香りを語らせてくださるのだと、そのように信じ歩む一年間でありたいと、2018年度を始める前に、私たちは切に神の前に祈って、そして歩み出したいと願っているのです。

(2018年3月25日の「週報」に掲載)

余yoteki滴 四旬節黙想(2)

「あなたは獣をも救われる」(詩 36 篇 7 節)

 

3月18日のローズンゲンから。

 

詩人は見ている、というよりも、囲まれている、と言うべきだろうか。

床の上で悪事を謀り

常にその身を不正な道に置き

悪を避けようとしない(5節)

人たちに。

詩人は、そのように生きる人たちの「生きやすさ」を知っている。

モラルとか倫理とかに従うことをしない生き方の安易さを知っている。

でも、そしてそれは、「不正な道」を歩むことだということも。

 

で、詩人は、ひとり空を見上げる。

謀議の席、不正な、偽りにみちた密議がなされている席を抜け出して、空をあおぐ。夕であろうか。それとも、朝であろうか。

詩人は、

主よ、あなたの慈しみは天に

あなたの真実は大空に満ちている(6節)

とうたう。

謀略を巡らす席で、顔を寄せあい、低い声で、高く視ることなく、自分の利益のみを計算し、都合の良いことだけをささやき、下へ下へと降って行くだけの思考を振り払うように、詩人は空を見上げる。

 

そして「虚」でしかない、「無」でしかない大空に、神の真実が満ちているのを知る。

詩人は、地の底に隠れて密議しようと、

恵みの御業は神の山々のよう

あなたの裁きは大いなる深淵(7節)

である以上、神からは逃れ得ないのだということを深く思う。

詩人は、今や自分の心が、エデンの園で木陰に隠れる「人」のように、神が歩むのを聞いて畏れて逃げ出す「獣」のようであると知る。

 

その上で詩人は、

主よ、あなたは人をも獣をも救われる

と覚悟する。

神の慈しみと真実とが大空に満ちている以上、いつでも主が私をご覧になっておられるのを、私は知らなければならない。詩人はそう悟る。

策略の間(ま)に座っていても、奥深い一部屋で利権を操っていても、神が見ておられない、ということはないのだ、と知る。

そして神は、そのことを深く思う私の、獣の心さえも救われるのだ、と詩人は悟る。

では、私は…。

余yoteki滴

「あなたがたの中で病気の人は教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」(ヤコブの手紙5:13)

 

私は、いつでも不思議な思いに捉われる。葬儀の諸式に出席しないと、その人の死というものを実感できない気がする。

人は、“死”を経験することはできないから、他者の“死”をもって、“死”を、いわば“擬似的に”体験する。

だから、“死”は、通知をもって始まる。“亡くなりました”という一報が、その人と私とが、死と生という区別によって隔てられたのだ、と知らせる。

ヤコブは、「病気の人は教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」と記す。ここで語られる「長老」という役職は、聖職位としての、のちの「司祭」なのだろう。そして、「塗油(終油)」という「秘跡」(サクラメント)は、ここから導き出されてゆく。

もちろん、プロテスタント教会は、「聖礼典」(サクラメント)を「洗礼」と「聖餐」の2種としたから、「塗油(終油)」を「聖礼典」(サクラメント)として行うことはない。それでも牧師は「枕辺の祈り」を祈る。そしてそれは、「教会の長老」としての“機能”なのだと聖書は、私に教える。

「教会の長老」は、他者のために祈る、という“機能”を負う者。ペトロは次のように記す。「わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい」(ペトロの手紙(1)5:1-2)。「長老」の“機能”は、「神の羊の群れを牧」すること。「世話を」すること。その内に、死への備え、というものがあるということであろう。

2018年度 礼拝予定

2018年度 礼拝予定

3月24日(日)四旬節第3主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 13章 1-9節
説教  「肥やしをやってみます」  新井 美穂 牧師
讃美歌     299、298、306、521、47

3月17日(日)四旬節第2主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 9章 28-36節
説教  「祈っておられるうちに」  服部 能幸 牧師
讃美歌     299、285、305、310、47

3月10日(日)四旬節第1主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 4章 1-13節
説教  「みんなあなたのもの」  服部 能幸 牧師
讃美歌     299、284、298、313、47

3月3日(日)大斎節前主日聖餐礼拝
聖書  ルカによる福音書 6章 39-45節
説教  「口は物言ふ」  服部 能幸 牧師
讃美歌      183、510、509、508、75、47、18、83、86、46

2月24日(日)顕現後第7主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 6章 37-38節
説教  「赦しなさい」  服部 能幸 牧師
讃美歌      183、528、511、42、46

2月17日(日)顕現後第6主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 5章 13-16節
説教  「主がよりどころ」    新井 美穂 牧師
讃美歌      183、60、451、512、46

2月10日(日)顕現後第5主日・創立115周年記念聖餐礼拝
聖書  ルカによる福音書 5章  1-11節
説教  「沖に」    服部 能幸 牧師
讃美歌      183、467、418、406、78、83、86、46

2月3日(日)顕現後第4主日聖餐礼拝
聖書  ルカによる福音書 4章  22-30節
説教  「イエスは立ち去られた」  服部 能幸 牧師
讃美歌      183、544、529、290、77、83、86、46

1月27日(日)顕現後第3主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 4章  14-21節
説教  「耳にしたとき、実現した」  服部 能幸 牧師
讃美歌      183、287、288、289、46

1月20日(日)顕現後第2主日礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 2章  1-11節
説教  「酔いがまわった」  服部 能幸 牧師
讃美歌      183、390、353、286、46

1月13日(日)顕現後第1主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 2章  15-21節
説教  「洗礼の後」  服部 能幸 牧師
讃美歌      183、288、417、462、46

1月6日(日)顕現祭 主日聖餐礼拝
聖書  ルカによる福音書 2章  15-21節
説教  「宿る前に」  服部 能幸 牧師
讃美歌      182、271、Ⅰ-120、Ⅰ-284、276、83、86、38

1月1日(火)湘北地区新年聖餐礼拝  14:00~
聖書  マタイによる福音書 2章   1-12節
説教  「宝の箱と内なるヘロデ」  新井 美穂 牧師
讃美歌     182、262、257、278、419、47、13、83、86、38

12月30日(日)降誕後第1主日・歳晩主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 2章  41-52節
説教  「どうして私を捜したの」  服部 能幸 牧師
讃美歌      182、289、Ⅰ-123、291、38

12月24日(月)聖夜燭火唱詠晩祷  19:00~
聖書  ヨハネによる福音書 1章   1-5節
説教  「闇を照らす光」  新井 美穂 牧師
讃美歌

12月23日(日)待降節第4主日聖餐礼拝
聖書  ルカによる福音書 1章   39-45節
説教  「そこで、マリアは言った」  服部 能幸 牧師
讃美歌      182、175、Ⅰ-104、Ⅰー469、178、83、86、38

12月16日(日)待降節第3主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 3章   10-18節
説教  「主こそ力」  新井 美穂 牧師
讃美歌      182、119、136、457、38

12月9日(日)待降節第2主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 3章    1-6節
説教  「悲しみと不幸の衣を広げ」  服部 能幸 牧師
讃美歌      182、244、243、241、38

12月2日(日)待降節第1主日聖餐礼拝
聖書  ルカによる福音書 21章 25-38節
説教  「頭を上げなさい」  服部 能幸 牧師
讃美歌      182、239、238、237、77、83、86、38

11月25日(日)終末主日・収穫感謝祭全体礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 15章 1-17節
説教  「キリストの喜び」  新井 美穂 牧師
讃美歌      101、60、58、64、24(こどもさんびか改訂版)

11月18日(日)終末前主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 13章 32-37節
説教  「目を覚まして」  服部 能幸 牧師
讃美歌      352、432、481、523、92

11月11日(日)終末前々主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 12章 38-44節
説教  「だれよりもたくさん」  服部 能幸 牧師
讃美歌      352、528、464、443、92

11月4日(日)召天者記念日・三位一体後第23主日聖餐礼拝
聖書  マルコによる福音書 12章 28-34節
説教  「第一の掟は、これ」  服部 能幸 牧師
讃美歌      352、571、573、574、47、18、83、86、92

10月28日(日)三位一体後第22主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 10章 46-52節
説教  「弱さを身にまとって」  新井 美穂 牧師
讃美歌      352、158、378、508、92

10月21日(日)三位一体後第21主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 10章 35-45節
説教  「いちばん上になりたい」  服部 能幸 牧師
讃美歌      352、513、485、291、92

10月14日(日)三位一体後第20主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 10章 17-30節
説教  「子どもの時から」  服部 能幸 牧師
讃美歌      352、513、485、291、92

10月7日(日)三位一体後第19主日聖餐礼拝
聖書  マルコによる福音書 10章 1-16節
説教  「子どもたち」  服部 能幸 牧師
讃美歌      352、455、497、521、375、83、86、92

9月30日(日)三位一体後第18主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 9章 38-50節
説教  「自分自身の内に塩を」  新井 美穂 牧師
讃美歌      352、6、441、451、92

9月23日(日)三位一体後第17主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 9章 30-37節
説教  「彼ら真ん中」  服部 能幸 牧師
讃美歌      352、289、390、438、92

9月16日(日)三位一体後第16主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 8章 27節 ー 9章 1節
説教  「自分の命を買い戻す」  服部 能幸 牧師
讃美歌      352、208、358、438、92

9月9日(日)三位一体後第15主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 7章 31-37節
説教  「だれにも話してはいけない」  服部 能幸 牧師
讃美歌      352、494、461、410、92

9月2日(日)三位一体後第14主日・振起日聖餐礼拝
聖書  マルコによる福音書 7章 24-30節
説教  「だれにも知られたくない」  服部 能幸 牧師
讃美歌     352、157、394、437、448、83、86、92

8月26日(日)三位一体後第13主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 7章 1-23節
説教  「洗わない手で食事をする」  服部 能幸 牧師
讃美歌      351、487、474、452、91

8月19日(日)三位一体後第12主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 10章 46-52節
説教  「今や神の義が示された」  小西 淳 教師
讃美歌      351、452、529、484、91

(小西淳教師は、伊勢原教会出身教役者、現在大阪教区久米田教会牧師)

 

8月12日(日)三位一体後第11主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 10章 46-52節
説教  「祝福の人生が与えられているので」  鈴木 伸治 牧師
讃美歌      351、83、361、567、91

(鈴木伸治教師は、元大塚平安教会牧師、同ドレーパー記念幼稚園園長、現在伊勢原幼稚園園長)

 

8月5日(日)三位一体後第10主日平和聖日聖餐礼拝
聖書  マルコによる福音書 6章 53-56節
説教  「舟をつないだ」  服部 能幸 牧師
讃美歌      351、371、424、462、411、83、86、91

7月29日(日)三位一体後第9主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 6章 45-52節
説教  「心が鈍くなっていた」  服部 能幸 牧師
讃美歌      351、528、507、461、566、91

7月22日(日)三位一体後第8主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 6章 30-34節
説教  「しばらく休む」  服部 能幸 牧師
讃美歌      351、352、510、566、91

7月15日(日)三位一体後第7主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 6章 7-13節
説教  「旅には杖一本」  服部 能幸 牧師
讃美歌      351、566、453、284、91

7月8日(日)三位一体後第6主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 6章 1-6節
説教  「この人は、」  服部 能幸 牧師
讃美歌      351、458、497、531、91

7月1日(日)三位一体後第5主日聖餐礼拝
聖書  マルコによる福音書 5章 21-43節
説教  「歩きだした」  服部 能幸 牧師
讃美歌      351、441、505、522、76、83、86、91

6月24日(日)三位一体後第4主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 1章 47-66、80節
説教  「名はヨハネ」  服部 能幸 牧師
讃美歌      351、519、362、193、91

6月17日(日)三位一体後第3主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 4章 26-34節
説教  「土に蒔くとき」  服部 能幸 牧師
讃美歌      351、560、440、433、91

6月10日(日)三位一体後第2主日礼拝(子どもの日・花の日)全体礼拝 9:00開始
聖書  ルカによる福音書 18章 15-17節
説教  「神の国を受け入れる」  新井 美穂 牧師
讃美歌

9:00~ 子ども達から大人まで一緒の合同礼拝です。 10:15からは小礼拝があります。

6月3日(日)三位一体後第1主日聖餐礼拝
聖書  マルコによる福音書 14章 12-26節
説教  「契約の血」  服部 能幸 牧師
讃美歌      351、401、406、412、411、83、86、91

5月27日(日)三位一体主日礼拝
聖書  テサロニケの信徒への手紙(1)5章 23-24節
説教  「死と復活を考える」  月本 昭男 先生
讃美歌      20、322、480、530、46

同日午後、月本先生(立教大学名誉教授・上智大学教授)による教会研修会があります。

5月20日(日)聖霊降臨祭(ペンテコステ)聖餐礼拝
聖書  使徒言行録 2章 1-13節、36節
説教  「今このことを見聞きしている」  服部 能幸 牧師
讃美歌      20、291、343、467、390、83、86、46

5月13日(日)昇天後主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 16章 14-20節
説教  「雲に覆われて」  服部 能幸 牧師
讃美歌      20、338、416、463、46

5月6日(日)復活後第5主日聖餐礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 15章 9-17節
説教  「わたしたちが神を愛したのではなく」  服部 能幸 牧師
讃美歌      20、474、510、539、524、83、86、46

4月29日(日)復活後第4主日礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 15章 1-8節
説教  「わたしの言葉」  服部 能幸 牧師
讃美歌      20、459、390、98、46

4月22日(日)復活後第3主日礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 10章 11-18節
説教  「羊飼いの声」  服部 能幸 牧師
讃美歌      20、459、390、98、46

4月15日(日)復活後第2主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 24章 35-48節
説教  「イエスだと分かった」  服部 能幸 牧師
讃美歌      20、534、543、573、46

4月8日(日)復活後第1主日礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 20章 19-31節
説教  「これらのことが書かれたのは、」  服部 能幸 牧師
讃美歌 20、446、517、563、46

4月1日(日)復活祭墓前礼拝   15:00~  場所:湘南キリスト教墓苑(平塚市)
聖書  ヨハネによる福音書 20章 1-10節
説教  「家に帰って行った」  服部 能幸 牧師
讃美歌 326、325

4月1日(日)復活祭聖餐礼拝
聖書  マルコによる福音書 16章 1-8節
説教  「あなたがたよりも先に」  服部 能幸 牧師
讃美歌 20、331、328、326、81、83、86、46

余yoteki滴 

「天の軍勢」(ルカによる福音書2章13節)2017年12月31日

えー、昔はと申しますと、どこに行くのも自分で歩(あゆ)んで行くわけでして、イエスさまの時代も、歩(あゆ)むか、ろばに乗るかぐらいで。道中は難儀でございますな。野宿になることもしばしばです。ですので、宿に着きますと、これはもう、ほっと、いたしますな。

 

イハッチ   えー、お客さま。ようこそベツレヘムへ。この宿の番頭のイハッチでございます。宿帳をお書きいただきたいと思いまして。

コルネリオ  うむ、拙者はローマ帝国第十一軍団のコルネリオ大尉である。シリア属州のイタリア隊まで参る。あー、番頭。昨夜は、ま狭な宿でな、住民登録の夫婦連れやら巡礼客やらと一緒で、子どもが泣くやら、巡礼客がご詠歌を詠うわで、眠ることすら出来なんだ。今日は、どこでもよい、静かな一間(ひとま)を頼むぞ。

イハッチ   はい、コルネリオさま。私どもではごゆっくりお寛ぎいただけるものと存じます。

 

ところが、夜になりますと、隣の部屋の羊飼い達が大騒ぎをいたします。

 

羊飼い1   おい、昨日の話しをもう一度してみろよ。

羊飼い2   なんだよ、もう眠いのにまたあの話しか?

羊飼い3   ちゃんと起きていたのはお前だけなんだから、よーく聞かせてくれ。

羊飼い2   しかたがないな。ほれ、昨日の夜も、俺は羊達と一緒にいたわけよ。そうしたら、真夜中なのにすげーまぶしくってな。何だこりゃ、と目を開けたけれども、何にも見えない。暗いんじゃない。明るすぎて、何も見えないのよ。で、どうなっているんだ、と思っていると、まず、ごわーんと、

羊飼い3   鳴ったか?

羊飼い2   鳴った。おれの腹が。夕飯が早かったんだな。ま夜中には腹が減った。

羊飼い3   おまえの腹の虫の話しを聞いているんじゃねえやな。それからどうなった?

羊飼い2   見ていると、大天使ガブリエルがい出ましてな、そこな羊飼いめら、今宵、救い主、生まれまししぞ、とのたまわったな。

羊飼い3   ふむふむ。さすが大天使、擬古文調なわけだ。

羊飼い2   とだ、そこにたちまち天の大軍勢があらわれて、めでたや今宵、ちゃんちきちん。

羊飼い1   どんな様子だ?

羊飼い2   そらおまえ、こんなんなって、どかちゃか、あんなになってかっぽれさー

コルネリオ  イターチー!

イハッチ   はい、お呼びでございますか。

コルネリオ  イタチ!

イハッチ   イタチではございませんで。イハッチでございます。

コルネリオ  さようであったな。イタチ。最前、それがし貴様になんと申した。昨夜はま狭な宿でろくろく眠れなかったゆえ、今宵はゆるりと静かな部屋を、と申したな。

イハッチ   はい、さようで。

コルネリオ  ところが、何だ、あの騒ぎは。うるさくてかなわん、部屋替えをいたせ!

イハッチ   はい、コルネリオさま、ただいま、ただいま静めて参ります。どうぞご安心を。

 

イハッチさん、すぐさまお隣に参りまして、

 

イハッチ   エー、申し訳ありません。もう少しお静かに。あの、みなさん、

羊飼い3   天の軍勢、どかちゃかどかちゃか

羊飼い1   笛ふけ、太鼓もずんばらずったか

羊飼い2   天使も天の軍勢も、あらよっとこさー  はい?

イハッチ   あの、もう少しお静かに。

羊飼い1   なんで?

イハッチ   あの、お隣様がちとうるさいと…。

羊飼い3   いいじゃないか。陽気に騒いでいるんだ、文句あるか?

イハッチ   私(わたくし)めはいっこうに。ただ、そのお隣様が、あのローマの

羊飼い2   ローマの何だよ?

イハッチ   ですから、ローマのこれで。(と、右手で剣の柄をつかむ仕草)

羊飼い2   これって何だ? えっ、両(りゃん)こ、さむれー? 軍人? 将校? それを先に言えってんだ。判ったよ。静かにするって。

コルネリオ  いや、待て。それがし、隣室に泊まりおるコルネリオ大尉である。貴様ら、この天下太平な、パックス・ロマーナと言われる、かしこくも皇帝アウグストゥス様の御代に、

羊飼い1   あの、だんな、紙幅がねーんでさぁ。話しがなげーんで、何をおっしゃりたいんで?

コルネリオ  むむ、つまりこの泰平の世に他の国の軍勢がやって来た、と、貴様らそう申すのだな?

羊飼い2   へえ、その通りで。

コルネリオ  いや、聞き捨てならぬ。我がローマ帝国の主権を蹂躙する天の軍勢とやらは、いったいどうやって侵入したと申すのだ?

羊飼い2   そうおっしゃっても突然だったので。

コルネリオ  でも見ておったのだろう? どうであったのだ

羊飼い2   いやぁ、天からだったので、あっしにはどこから来たのか、“てん”で判りませんでした。

 

お後がよろしいようで。

余yoteki滴 説教の前の前、あるいはもっと前 「ヨセフは眠りから覚めると」

マタイによる福音書1章18-25節

(2017/12/8 保護者の会クリスマス礼拝のために)

 

ひそかに縁を切ろうと決心した(19節)

 

ヨセフは、袋小路にいる。

誰にも相談できない。

ヨセフは「マリアのことを表ざたにするのを望まず」(19節)にいる。自分ひとりの心の中に全てを飲み込もうとしている。

でも、問題が大きすぎて、ヨセフは「決心」してもなお「このように考えている」。

心は揺れる。

おだやかではないヨセフの眠りは、浅い。

 

身ごもっていることが明らかになった(18節)

 

マリアの懐胎は、既に「明らかになっ」ている、とマタイによる福音書は記す。

ヨセフが知った時、この事実は、もはや「明らかになっ」ている。

“不思議な出来事だ”と、話しに尾ひれがついてユダヤ中をゴシップが駆け巡っている、ということ、

ではない。

神が、一人の女の子を通してこの時代に介入なさる、のだということが「明らかになっ」ているのだ、と福音書は宣言する。

そして神が歴史に介在なさろうする時、人は無力。

だから、ヨセフは「ひそかに縁を切ろう」と「決心」する。

でも、ヨセフの思考は揺れ、「このように考えている」ままに、眠る。

 

主の天使が夢に現れて(20節)

 

すると、ヨセフの眠りに天使があらわれる。

「ヨセフ」とは、夢見る人。彼の遠い先祖も夢見る人(たとえば、創世記40章)。

彼は、夢の中で語りかけて来た相手のことを、「主の天使」であると知っている。「聖霊によって身ごもった」という不可解で、人の手に余る出来事のゆえに、ヨセフは、孤独のうちに苦悩してきた。でも、聖霊によるという事実が「明らか」であるがゆえに、ヨセフは、神の助けを信じている。

だから、語りかけて来た相手を疑わない。「主の天使」であることを疑わない。

 

ヨセフは眠りから覚めると(24節)

 

ヨセフは、神の決定の前に身を置く。「主の天使が命じたとおり」に生きようとする。

彼は、そのことを不条理とは思わない。否、マタイによる福音書を残した信仰共同体が、不条理だとは思わない、というべきか。

ヨセフによって示される信仰者の姿勢は、神の絶対的な支配への信頼。

神がなさることに、信仰者として、どのように参与して行くことが出来るのか、ということを祈り求めることこそが、神への信頼。

それ故、福音書は、“ヨセフを”、私たちに示す。

神の御旨を生きる人として。マタイによる福音書を残した信仰共同体の、信仰に生きる生き方の模範として。

余yoteki滴 説教の前の前、あるいはもっと前「神のものは神に」

マタイによる福音書22章15-22節

2017/10/22(三位一体後第19主日に)

 

それから、ファリサイ派の人々は出て行って、(15節)

 

彼らは、キリストの前から立ち去る。“出て行った”先はどこなのだろうか。

キリストの前を離れて、私たちはどこへ、“出て行く”のか。

“私はキリストの前から離れない”、などとは言えない。

私の心は、いつでもキリストの前から離れて、自分の思いへと向かって行く。私はそのようなものに過ぎないから。

 

キリストから遠く離れて

 

彼らが、キリストから遠く離れて企むのは、キリストの「言葉じりをとらえ」ること。

キリストに敵対するものが、キリストを信じるものよりも、深くキリストの御言葉を聴こうとするのは不思議、

ではない。むしろ、

敵対し、「言葉じりをとらえ」ようとする熱意のゆえに、彼らは真理を聴くものになる。

だから忘れてはならない、私が漫然とキリストの前に居るつもりになっているその時に、キリストに敵対するものは、私などよりもはるかに深い聴き手である、ということを。

 

先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。(16節)

 

彼らは、キリストというお方を理解している。

マタイによる福音書は、警告する。

いつの時代でも、キリストに敵対するものたちは、“真理を語って”キリストに対抗するのだ、ということを。

 

ところで(17節)

 

彼らは本題に入る。

 

お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか(17節)

 

覚えておかなければならないのは、彼らは税金を納めている立場。

ローマ帝国の秩序、治安、統治、覇権、安定、政策というものを、(必要悪であると捉えているかどうかは別にして、)是認する立場。

貧しさの中から、辛苦して税金を納めているのではない。

自己の状況を、ローマ帝国という地上の権威が、その支配が保証するということを“よし”としている。

だから、

彼らの中では、メシアを待つユダヤ教徒としてのありようと、ローマ帝国の(市民権の保持とは関係がなく)「臣民」ということとは矛盾しない。併置し、聖と俗とを切り替えるように、応変できる。

でも、

イエスが「教えくださ」るのはそういう生き方ではない。

イエスが「教えくださ」るのは、

キリストが来られた、ということを知って生きるということは、聖と俗とを使い分ける技巧を、知恵として誇る生き方ではない。

キリストが来られた、と知ったものは、キリストの内に生きる。

 

税金に納めるお金を見せなさい(19節)

 

キリストは、彼らに言われる。

今ここに、この神殿の境内というこの場所に、「税金に納めるお金を」持って来なさいと。

彼らは顔をしかめて舌打ちする。

この人は、聖なる神殿のうちに居られながら、その場所に、デナリオン貨を持ってこいと言われるのか、と。

聖なる場所には聖なる貨幣がある。

この神殿は、世俗の権威であるローマ帝国のただ中にあって、孤島のように独坐する聖なる領域。世俗の権威に対抗する唯一の場所。

そこに、

世俗の支配の象徴であるデナリオン貨を持ち込もうとするのは、聖と俗とをはっきりと遮断してこそ保持できる区別をあいまいにする。

彼らは嫌悪を示す。

でも、イエスは、要求される。「税金に納めるお金を見せなさい」と。

今や、キリストは来られ、聖と俗とを儀礼的に遮断する必要は終わった、とイエスは言われる。

キリストの権威が既にこの世の中に光としてある以上、神殿にデナリオン貨を持ち込んではいけない、という禁忌は意味を持たない。

むしろ、神殿が聖域なのではなく、

キリスト御自身がまことの権威としてお立ちになっておられる“そこ”が、“そこ”こそが聖別された所、神殿となる。

 

デナリオン銀貨を持って来る(19節)

 

だから、マタイによる福音書は、ごく当たり前の事のように、何か、財布から取り出すかのような気楽さで、「デナリオン銀貨を持って来ると」と、記すが、この一文にこそ、キリストの全能の権威が示される。

彼らは、“見せなさい”と命じられるキリスト権威に抵抗できない。

キリストが“見せてごらん”、と私に語られる時、

私は、

自分の手が握りしめているものを、

手をゆっくりと開いてキリストに見せる。

私は、

いつでも、キリストに見せたくないものを、手の内に、心の内に、抱え込んでいる。

 

キリストの前から「出て行」(15節)こうとする

 

そして私は、

いつでも、キリストの前から「出て行」こうとする。だから、

私は、

いつでも、キリストの前か「出て行」こうとする私と、キリストの前に留まろうとする私との間で、軋む。そう、キリストの権威の前で、“すべてはあなたのものです”、と私が全身で告白することを、いつでも主は、待っておられる。

 

「これは、だれの肖像と銘か」(20節)

 

私が、神のものでありながら、この世のものでもあろうとする時、私が頼るのは、この世の「肖像と銘」。

「ハイデルベルク信仰問答」は問94の答でこう教えてくれる。

「わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために、あらゆる偶像崇拝、魔術、迷信的な教え、…を避けて逃れるべきこと」。

 

この世の権威は、経済、繁栄、優位、情報を保証してくれる。

しかしそれは、偶像崇拝。

私はいつでもそれらから全力で「避けて逃れ」なければならない。キリストのもとへ。

 

皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい(21節)

 

マタイによる福音書21章23節において、祭司長や民の長老たちが、「何の権威で」と問うた。

その結果、キリスト御自身が権威であるということが明示された。

キリストのご支配の中にあって、キリスト以外の全ての「肖像と銘」は、その権威を失う。

それ故、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」とイエスが言われる時、それは、私の持っているものの何分の一かを神に返すこと、ではない。キリストの権威の前では、私の全てが「神のもの」なのであり、私という存在そのものが「神のもの」なのだから。

私が抱えているものがデナリオン貨であろうと、偶像崇拝へと傾いてしまう弱さであろうと、キリストは、私に、

“さあ、手をひらいて、あなたが手のうちで必死に握りつぶそうとしているものをみせてごらん”、と語りかけてください。

“見せてごらん。あなたの弱さをも、恥をも、見せてごらん。そのすべてを私に差し出してごらん”。

キリストは私に、語ってくださる。

 

彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った(22節)

 

キリストは、敵対するものたちをも招かれる。彼らに、「持って来」なさいと命じられる。自分を、

ありのままの私を、キリストの目の前に「持って来」なさい、と言われる。

私も、

手の中、心の内に、握っているものを持ってキリストの前に立つ。

でも、

イエスが私に「神のものは神に返しなさい」、あなた自身、あなたの全ては「神のもの」なのだからあなた自身を「神に返しなさい」と言われる時、私は、その御言葉の絶対性のゆえに、

揺らぐ。怯む。

そして、

せっかくありのままの自分を、「持って来」たのに、

せっかくキリストの前に至ったのに、

せっかくキリストからあなた自身を「神に返しなさい」と言っていただいたのに、私は、

躊躇する。

 

マタイによる福音書を残した信仰共同体は、キリストの絶対的な宣言の前に立つことが畏怖すべき事だと知っている。

ここまで来たのに!

キリストの御言葉の前に至ったのに!

差し出せない弱さを、私たちが生きていることを承知している。

「聞いて驚き」はしても、「イエスをその場に残して立ち去」るだけで終わる弱さを、福音書は、知っている。

「神に返し」つくして生きることの難しさを知っている。

そして私も、「立ち去」ることしか出来ないもの。

 

であったとしても、私は、「神のものは神に返しなさい」というキリストの御声を聴いたものとして、歩み出す。

もう、決して、それ以前の聴いたことがない自分へは後戻りできない。

そして主は、

“キリストの恵みの内に、キリスト共に歩み出しなさい、さあ、もう一度、今度こそは「立ち去」らずに”、と、

何度でも私に語りかけてくださる。