余yoteki滴

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

(ローマの信徒への手紙 12 : 15 )

 

ローマの信徒への手紙は、パウロがまだ会ったことのないローマにいるキリスト者たちに宛てて記した手紙です。

受け取り手は、ローマにいるキリスト者たちですが、彼らが「ローマ人」であるとは限らないわけです。むしろ、ローマの教会は、いろいろな国や地域の人たちが集う、文化も、言語も、肌の色も、多様な、さまざまな人たちの集まりだったのではないかと思われます。

そういう人たちに向かって、パウロは、この言葉を書く前に「愛には偽りがあってはなりません」とまず語ります(12章9節)。

 

あえてパウロがそう記す、ということは、「愛」には偽りがあるのだということです。

文化や育ってきた環境が違えば、「愛」についての、概念にも、理解にも、違いがある、ということなのでしょう。そして、私たちが「愛」だと思うものは、しばしば私の利己心の投影でしかない、ということがある、ということです。

ですから、「愛する」、ということは実は難しいことなのでしょう。

 

パウロは、キリスト者として、そういう難しい「愛」を生きるために、「たゆまず祈りなさい」と奨めています。

「愛を生きる」とは、たゆまず祈ることの内でしか実現できない、とパウロは実感していたのでしょう。ですから、私たちは、どれだけ他者のために祈っているだろうかと、ふと、振り返ってみる必要があるのでしょう。

ところで、喜ぶ人と共に喜ぶことと、泣く人と共に泣くことと、どっちがより難しいことなのでしょうか。私たちは、そのこともこの2月に、深く考えてみたい、と思うのです。

(2月の「園だより」から)

(2019/03/03週報掲載)

余yoteki滴

主よ、わたしの言葉に耳を傾け つぶやきを聞き分けてください

(詩 5 篇 2 節)

 

詩人は、嘆きの内にある。

嘆かざるを得ない内容はわからない。詩人は深い嘆きの中にあるので、「朝ごとに、御前に訴え出て」(4節)祈らなければならない。詩人は、朝ごとの祈りを、神殿での祈りを、「わたしの王、わたしの神よ」(3節)と始める。

 

詩人は、「わたしの王、わたしの神よ」と祈る。

古代の詩編の編集者は、ヤハウェにこのように祈り得るのはダビデその人に違いないと思い、この詩に「賛歌。ダビデの詩」という詞書を与えたのだろう。

でも同時に、詞書に、「指揮者によって。笛に合わせて」と記されているように、この詩は、神殿で、朝の礼拝毎に歌われたのかも知れない。もしそうであるならば、この詩は、神殿で祈るものは、誰でも、ヤハウェを「わたしの王、わたしの神よ」と呼びかけることができる、と私たちに示す。

 

つまり、神の前に立つ者は、深い嘆きを抱えて、朝ごとに神の前に立とうと願う者は、誰でも、地上の王、権威、位階を越えて、ただ神のみを「王」とする神の秩序のうちに生きる者なのだ、とそのよう宣言されている。

そして私も、この世の秩序ではなく、神の秩序のうちに歩むのだと確信し、そのように歩み出す時に、神を「わたしの王、わたしの神よ」と呼ぶことができる、そのように招かれる。

 

詩人の祈りは、「つぶやきを聞き分けてください」というもの。

「つぶやき」は、口語訳では「嘆き」。文語訳では「わが思(おもひ)」。月本先生は「呻き」と訳すことを提案しておられる(「詩編の思想と信仰Ⅰ」)。

詩人の祈りは、明瞭な形にならない。

嘆きが深く、その祈りは、心の思(おもひ)は、十分に吟味された思索には程遠いまま口から出されて行く。思いは乱れ、よって言葉もまた「つぶやき」にしかならない。「呻き」にしかならない。

ハンナが「主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました」(サムエル記上1 章 15 節 )と言うように、心の思いを注ぎ出すような祈りは、「つぶやき」、声にならない「呻き」。

 

そして詩人は、そのような乱れた祈りに、神は耳を傾けてくださると、信じている。

そう、神は私の心の呻きを一番よく知っていてくださる。語り得ない、言葉にしないと決めた、声に出すことのできない「つぶやき」を、「呻き」を、主は聞いてくださる。

そしてハンナにエリが言うように、私たちは、私に語られる主の御声を聞く。「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことを叶えてくださるように」(サムエル記上1 章 17 節 )。キリストは、そのように必ず語りかけてくださる、私に。

(2/1(金)の「ローズンゲン」の旧約日課から)

(2019/02/03週報掲載)

 

余yoteki滴

あけましておめでとうございます。

主の降誕2019年を主が御手の内においてくださり、その豊かな恵みの内を歩むことができますように!

 

伊勢原教会で湘北地区の新年合同礼拝がもたれるのは2011年以来のことだと思います。地区の牧師先生方にもずいぶんと変化がありました。また、教会・伝道所を取り巻く状況も、変わってきています。日本キリスト教団の教勢はずっと右肩下がりです。2019年度の教団予算は、とうとう収入が(伝道資金負担金を含んでなお、)3億円を下回ります。

 

そして、それぞれの教会・伝道所の財務的な内実も厳しい状況です。

でも、私たちの内に不安はありません。だって、教会はもっと大変な時代を経験してきました。教勢が伸び悩む、それどころか落ち込む、ということを、大なり小なり体験して来ました。そしてそれでもなお、教会は、御手の内を歩んで来たのですから。

 

今日、1月1日は12月25日から8日目です。

聖餐式の中の「特別序唱(特別叙唱)」には、「ことに、聖霊の働きによって,御子をおとめマリアから生まれさせ,まことの人としてくださいました。これは御子がその汚れない人性をもって,私たちのすべての罪をきよめてくださるためです」との祈りがあります。まだ、生まれて8日目のイエスさま、でも、無力なこのお方こそが、「私たちのすべての罪をきよめてくださる」方なのです。

 

私たちが信頼し、唯一と確信しているこの方は、今日、まだ命の8日目を歩んでおられます。

でも、その方は「私たちのすべて」なのです。この方が、のちのち偉大なお方になるから私たちは信頼しているのではないのです。

この方が、この方であるから、私たちはこの方に信頼をよせるのです。そのことの素晴らしさに気づいて行けたらと、今日、思うのです。

 

教会には、争いや分裂、悲しみや痛みがあります。でも、そういう全てを私に預けなさい、と言ってくださる方は、まだ生まれて8日目の赤ちゃんなのです。

そして、ここに真理があります。

私たちが誰かの庇護を得たいと思う時、その人は大きな力を持っている、と私たちに感じられる人なのでしょう。でも、本当に私たちが唯一頼りにする方は、無力の極みにおられるのです。

そうです。

私たちの人間としてのモノサシ、基準、判断を、私たちが知恵だと思っているものを、私たちが打ち捨てた時、私たちは、無力の極みにおられるこのイエスこそが、「私のすべて」なのだと気づくのです。人の思い、人の願い、人の思考によって霞んでる視野を、それらを打ち捨てて視界を開いていただく時、私たちは十字架以外何も知るまい、と祈る自由を与えられるのだと思うのです。

 

2019年、私たちが無垢な信仰を歩み、キリストを信じる真理へと深く、確実に、主によって招き入れていただく事を願って行きたいとこそ思うのです。

(2019/01/01湘北地区新春聖餐礼拝用書掲載)

余yoteki滴

ユダの町に行った

(ルカによる福音書 1 章 39 節)

 

マリアは、駆け出して行く。きっと誰にも知られない内に。誰にも咎められない内に。マリアが駆け出して行く先を、ルカによる福音書は「ユダの町」と記す。マリアは、ヨセフのところではなく「ユダの町」へと行く。マリアは自分の身の変化を知っている。そして、エリサベトのところに駆けて行く。身の中で起こっている奇跡を確かめに。御言によって新しくされる、ということは、古い出会いにこだわることをやめる、ということ。御言によって新しくされる、ということは、御言を聞いて新しくされた人との出会いを切に望むということ。だからマリアは駆けて行く。人生を賭けて駆けて行く。それにしてもマリアは、この時、「男は頼りにならない」と即断している。ヨセフだって御言葉を聞いているのに。ヨセフだって、御言葉の前に立っているのに。マリアは、自分と同じように今、御言葉を生きているエリサベトのところに走って行く。

(2108/12/23週報掲載)

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求める心、探す勇気

求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。

(マタイによる福音書7章7節)

「園だより」1月号より

 

1月のキ保連(「キリスト教保育連盟」の略称)の主題聖句は、マタイによる福音書7章からとられています。イエスさまは、まず私たちに「求める」心を持つように、と教えられます。

私たちは、苦労や、大変なことばかりだと、どうしても下を向いてしまいがちです。

うつむいてしまっている時、目線を上げて高く天を見上げて「求める」ということは、なんだかとても難しいことのように感じられてしまいます。目を上げたって無駄だと思ってしまいますし、そんなことに時間を使っている暇なんでない、と思ってしまいます。

でも、イエスさまは、困難な時、下を向かざるを得ない時に、そういう時にこそ、顔を上げなさい、首を伸ばしてごらんなさい、とおっしゃるのです。そして、山を越えてその向こう側を見ようとするかのように、神さまを訪ね求めなさい、と教えられます。

「求めなさい。そうすれば与えられる」(マタイによる福音書7章7節)。

なんと確信に満ちた言葉なのでしょう。求めるものは、必ず与えられる、と。

でも、現実の日々は決してそんなに甘くはありませんよ、と私たちは知っています。神さまにどんなに祈っても、私の願いは聴かれない、そういう経験を、私たちは積み上げて行きます。そして、ゆっくりと諦めて行きます。それが、「大人なのだ」、と思うようになります。そしてエスさまは、そういう私たちに、だからこそ、頭を上げなさい、と言われる。

「探しなさい。そうすれば与えられる」

イエスさまは続けてこう言われます。「探す」ということは、探すために動き回る、ということです。「捜す」ために出立する、ということです。「捜す」ものは、真理です。私たちの生き方の根幹です。本物の生きる指針を「捜す」ために、さあ、立ち上がって旅立ちなさい、とイエスさまは言われるのです。

(「園だより」に服部能幸教師が書いているコラムから。一部修正しています)

(2018/12/16週報掲載)

余yoteki滴

救い主を探しに

(マタイによる福音書2章1節以下)

「園だより」12月号より

 

キ保連(「キリスト教保育連盟」の略称)の12月の聖句は、マタイによる福音書2章からとられています。この個所は、東方の博士たちが、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」(マタイによる福音書2章2節)を礼拝するためにはるばるやって来たところです。

東方の博士たちは、ただ「星」だけを頼りに、まだ見たことのないイエスさまを尋ねる旅に出ました。もちろん、彼らの行動には、彼らなりの論理がありました。でも、周囲から見れば、それはものすごく無謀なことと映ったことでしょう。遠くユダヤまで? 生涯をかけて? 今での積み上げてきた名声も、権威も投げ捨てて? どうしてそこまでするの? その旅に意味はあるの? そう、周りは思い、博士たちの行動を止めようとしたかもしれません。でも博士たちは、親しい人たちの反対を押し切って、旅に出ました。「星」だけを頼りにして。

ところが博士たちは、ユダヤに入ったあたりで、自分たちを導いてくれていた「星」を見失ってしまいました。そこで、彼らはヘロデの王宮に行き、「王としてお生まれになった方」はどこにおられるのか尋ねることにしました。彼らの決断は勇気のあるものでしたが、同時に、大変危険なものでした。彼らは、現職の王であるヘロデに、地上の権威者であるヘロデに、未来の、そして本当の権威である王はどこにおられるのか、と尋ねたのです。

マタイによる福音書2章は、「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(3節)と記しています。救い主が来られるということが、王を、エルサレムの人々を「不安」にさせる、のです。

東方の博士たちは、キリストのご降誕に出会うために、そしてそのお方を礼拝するために、生涯を傾けて、キリストとの出会いを求めている人たちです。イエスさまに出会う、ということは、私たちの人生が、それまでの私の歩みが、根底から覆って行く、そういう出来事です。クリスマスという出来事に出会うということは、私たちを、今までとは違う生き方へと招くのです。

(「園だより」に服部能幸教師が書いているコラムから。一部修正しています)

(2018/12/16週報掲載)

余 yoteki 滴

バタバタと忙しい。会議、ミーティング、打ち合わせに沢山の時間を使っている。そういう日々で与えられたみ言葉。「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」(ルカによる福音書6章12節)。11月7日のテゼの日課。日課自体は、6章12節から19節まで。イエスが弟子を選び、その弟子と共に「山から下りて、平らな所にお立ちになっ」(17節)て癒しの御わざをなさるとこと。しかし、それらのすべての前にイエスは祈るのだ、と記されている。さて、では私は、と深く思う。

(2018/11/11週報掲載)

余yoteki滴

「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」

(コリントの信徒への手紙 (1) 3 章 23 節 )

 

上記の聖句は、10月6日(土)のテゼ共同体の日課。

この日、私は幼稚園の運動会を見ながらこの聖句の意味について思い巡らしていた。パウロは言う。「(あなたがたは)だれも自分を欺いてはなりません」(コリントの信徒への手紙 (1) 3章18節)。

私は、(何とか自分だけは)欺きたい、と思ってしまう。自分の事を鏡で見ないで、自分の事を客観的に見ないで、私は、私が理想とする自分であると(何とか自分だけは)欺きたい、と思ってしまう。

だって、周囲は、私に欺かれないから。等身大の私しか見ていないから。でも私は、(何とか自分だけは)欺きたい、と思ってしまう。

パウロだって、いっぱしの学者になりたいと精進した自分を知っている。博学を誇りたいと願った自分を知っている。でも、キリストと出会った時に、そんな自分の小ささを認めざるを得なかった、という事を知っている(それでも書簡は、充分に衒学的だけれども)。

神の前に何者でもない自分を見つけてしまった。いや、知ってしまった。

だから彼は、「めしいて」しまう。キリストはご覧になっている。傲慢な私も、自分勝手な私も、人との競争に打ち勝つことにのみ価値を置いている私も、セコくて、みっともなくて、失敗だらけの私も、キリストはそのままご覧になっている、と知ることになる。だから彼パウロは、そんなキリストのまなざしに耐えられないと思い、「めしいて」しまう。

そして、キリストを信じるという生き方は、「自分を欺かない」という生き方なのだ、と気づかされた時に(時間はかかったと思うけれども)、「目から鱗」の経験をする。キリストは私を受けとめていてくださっている、既に。あとは、私を、私が受けとめる事、と気づく時に、パウロは「目から鱗」を経験する(そこに至れるのは、すごいことだと思う)。

簡単なことなのに、本当に簡単なことなのに、この道は遠い、と気づく。「まっすぐな道」を行けば簡単にたどり着けるのに、私は、その道を行こうとしない。だから「まっすぐ」にキリストにたどり着けない。本当に簡単なことなのに。

パウロはその事を何とかして伝えたいと願う。

人生は単純で、キリストがご覧になっている私を、そのありのままの私を、キリストの前に受け入れる。「まっすぐな道」を歩む事なのだ、と。

次の日(10/7)の主日日課で、イエスさまは私に言われる。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(マルコによる福音書10章14節)。そう、私が、私を、妨げている。私がキリストのところに行く事を、私が、妨げている。

運動会は、午前中のクライマックスに差し掛かっていて、年長の子どもたちが旗体操をしている。

子どもたちがグラウンドに登場した曲が終わって、子どもたちは、それぞれの場所にじっとしている。そして次の曲までの「間」が静かに続いている。音楽はなく、子どもたちは動かない。時間だけが流れて行く。緊張した良い時間。不安になっているのは、大人たちであって、練習をしてきた子どもたちではない。そして、楽曲の始まりとともに、子どもたちの演技が始まる。大人たちの、ほっと息を吐く気配が続く。

私は、子どもの無邪気さを生きられない。だから、「まっすぐ」に歩むことは、難しい。

でも今日、私は、「まっすぐ」に歩むことの難しさを知っている、という歩みへと踏み出させてもらえる。「あなたがたはキリストのもの」と、パウロが招いている言葉によって。「わたしのところに来なさい」とのキリストの招きによって。大人の心配をよそに、じっと「間」を待つ子どもたちの姿によって。

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*引照していない聖句は、使徒言行録9章1節以下に記されているパウロの出来事です。新共同訳は「直線通り」ですが、口語訳は「真(ま)すぐ」、文語訳は「直(すぐ)という街(ちまた)」という訳です。

(2018/10/14週報掲載)

2019年度 礼拝予定

2019年度 礼拝予定

5月3日(日)復活後第3主日礼拝
聖書         ヨハネによる福音書 15章 1-8節
説教  「実を結ぶ」   服部 能幸 牧師
讃美歌 (開式)1、453、328、291、(聖餐)419、18、83、86、42-1、(閉式)27

(新型コロナウイルス対策により、聖餐式は執行しません)

 

4月26日(日)復活後第2主日礼拝(主のあわれみ)
聖書        ルカによる福音書 24章 28-35節
説教  「無理に引き止めた」   服部 能幸 牧師
讃美歌 (開式)1、287、334、467、(閉式)27

4月19日(日)復活後第1主日礼拝(新生)
聖書         ヨハネによる福音書 20章 19-31節
説教  「鍵がかけてあったのに」   服部 能幸 牧師
讃美歌 (開式)1、322、329、392、(閉式)27

4月12日(日)復活祭(イースター)聖餐礼拝
聖書         ヨハネによる福音書 20章 1-9節
説教  「神の恵みは無駄にならず」   服部 能幸 牧師
讃美歌 (開式)1、225、3326、5335、(聖餐)409、18、83、86、42-1、(閉式)27

(新型コロナウイルス対策により、聖餐式は執行しません)

 

4月5日(日)棕櫚の主日聖餐礼拝
聖書         ヨハネによる福音書 12章 12-26節
説教  「モーセが荒れ野で・・・」   服部 能幸 牧師
讃美歌 (開式)3、308、311、539、(聖餐)310、18、83、86、42-1、(閉式)28

(新型コロナウイルス対策により、聖餐式は執行しません)

 

3月29日(日)四旬節第5主日礼拝
聖書         ヨハネによる福音書 11章 1-16節
説教  「一緒に死のう」   服部 能幸 牧師
讃美歌 (開式)3、239、406、441、(閉式)28

3月22日(日)四旬節第4主日礼拝
聖書         ヨハネによる福音書 9章 1-12節
説教  「もう大人ですから」   服部 能幸 牧師
讃美歌 (開式)3、298、456、509、(閉式)28

3月15日(日)四旬節第3主日礼拝
聖書         ルカによる福音書 9章 57-21節
説教  「神の国にふさわしくない」   服部 能幸 牧師
讃美歌 (開式)3、300、474、511、(閉式)28

3月8日(日)四旬節第2主日礼拝
聖書         ヨハネによる福音書 3章 19-21節
説教  「光りの方に来る」   服部 能幸 牧師
讃美歌 (開式)3、238、297、461、(閉式)28

3月1日(日)四旬節第1主日聖餐礼拝
聖書         マタイによる福音書 4章 1-11節
説教  「悪魔は離れ去った」   服部 能幸 牧師
讃美歌 (開式)3、460、298、237、(聖餐)419、18、83、86、42-1、(閉式)28

(聖餐式は執り行いませんでした)

2月23日(日)顕現後節第7主日・大斎節前主日礼拝
聖書         マルコによる福音書 3章 16-23節
説教  「十字架」   服部 能幸 牧師
讃美歌 (開式)4、289、400、536、(閉式)28

2月16日(日)顕現後節第6主日礼拝
聖書         ルカによる福音書 8章 4-8節
説教  「忍耐」   服部 能幸 牧師
讃美歌 (開式)4、287、449、458、(閉式)28

2月9日(日)創立116周年記念・顕現後節第5主日聖餐礼拝
聖書         マタイによる福音書 5章 13-16節
説教  「行い」   服部 能幸 牧師
讃美歌 (開式)4、120、534、535、(聖餐)403、18、83、86、42-1、(閉式)29

2月2日(日)主の奉献日・顕現後節第4主日聖餐礼拝
聖書  ルカによる福音書 2章 22-40節
説教  「心にある思いがあらわにされる」   服部 能幸 牧師
讃美歌   (開式)4、55、73、512、(聖餐)78、18、83、86、42-1(閉式)29

1月26日(日)顕現後節第3主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 4章 12-23節
説教  「漁師」   服部 能幸 牧師
讃美歌   (開式)4、97、192、436、(閉式)29

1月19日(日)顕現後節第2主日礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 1章 29-34節
説教  「神の子羊」   服部 能幸 牧師
讃美歌   (開式)2、354、355、358、(閉式)29

1月5日(日)降誕後節第2主日聖餐礼拝
聖書  マタイによる福音書 2章 1-12節
説教  「不安」   服部 能幸 牧師
讃美歌   (開式)2、275、278、505、(聖餐)276、18、83、86、42-1、(閉式)29

12月29日(日)降誕後節第1主日・歳晩主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 2章 13-23節
説教  「学者たちにだまされた」   服部 能幸 牧師
讃美歌   (開式)3、268、272、289、(閉式)28

12月24日(火)聖夜燭火礼拝  19:00~
聖書  ルカによる福音書 2章 1-7節
説教  「飼い葉桶ー食べられちゃうよー」  新井 美穂 牧師

12月22日(日)待降節第4主日クリスマス聖餐礼拝
聖書  マタイによる福音書 1章 18-24節
説教  「実現」   服部 能幸 牧師
讃美歌   (開式)3、248、254、255、(聖餐)244、18、83、86、42-1、(閉式)28

午後、祝会とCS聖誕劇があります。

12月15日(日)待降節第3主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 11章 2-11節
説教  「つまづかない人は幸い」   服部 能幸 牧師
讃美歌   (開式)3、353、240、238、(閉式)28

12月8日(日)待降節第2主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 3章 1-12節
説教  「斧は既に」   服部 能幸 牧師
讃美歌   (開式)3、229、228、193、(閉式)28

12月1日(日)待降節第1主日聖餐礼拝
聖書  マタイによる福音書 24章 36-44節
説教  「用意」   服部 能幸 牧師
讃美歌   (開式)3(1)、237、240、241、(聖餐)232、18、83、86、42-1、(閉式)28

11月24日(日)終末主日・収穫感謝祭・全体礼拝
聖書  使徒言行録 15章 6-11節
説教  「決めました」  新井 美穂 牧師
讃美歌   (こども改訂版)101、103、113、58、24-2、25

11月17日(日)終末前主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 21章 5-19節
説教  「義の太陽」  服部 能幸 牧師
讃美歌   (開式)2(3)、577、572、558、(閉式)27

11月10日(日)終末前々礼拝
聖書  ルカによる福音書 20章 27-40節
説教  「復活にあずかる者」  服部 能幸 牧師
讃美歌   (開式)2(2)、224、447、535、(閉式)27

11月3日(日)三位一体後第20主日・召天者記念日聖餐礼拝
聖書  ルカによる福音書 19章 1-10節
説教  「あなたの家に泊まりたい」  服部 能幸 牧師
讃美歌   (開式)2(1)、385、510、579、(聖餐)76、18、83、86、42-1、(閉式)14

10月27日(日)三位一体後第19主日・宗教改革記念日・礼拝
聖書  ルカによる福音書 18章 9-14節
説教  「家に帰ったのは」  服部 能幸 牧師
讃美歌   (開式) 1、390、378、377、(閉式)14(3)

10月20日(日)三位一体後第18主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 18章 1-8節
説教  「うるさくてかなわない」  服部 能幸 牧師
讃美歌   (開式) 1、494、459、457、(閉式)14(2)

10月13日(日)三位一体後第17主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 17章 11-19節
説教  「その中の一人」  服部 能幸 牧師
讃美歌   (開式) 1、530、13、531、535、(閉式)14(1)

10月6日(日)三位一体後第16主日聖餐礼拝
聖書  ルカによる福音書 17章 5-10節
説教     「命じられたこと」  服部 能幸 牧師
讃美歌   (開式)1、390、406、409、(聖餐)375、18、83、80、46、(閉式)13(6)

9月29日(日)三位一体後第15主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 16章 19-31節
説教  「寝そべって酒宴」  服部 能幸 牧師
讃美歌   (開式) 1、513、531、535、(閉式)13(5)

9月22日(日)三位一体後第14主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 16章 1-13節
説教     「抜け目のないやり方」  服部 能幸 牧師
讃美歌   (開式)1、438、418、412、(閉式)13(4)

9月15日(日)三位一体後第13主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 15章 1-11節
説教  「不平」  服部 能幸 牧師
讃美歌   (開式) 352(4)、200、120、98、(閉式)13(3)

9月8日(日)三位一体後第12主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 14章 25-35節
説教  「役立たず」  服部 能幸 牧師
讃美歌   (開式) 352(3)、510、511、512、(閉式)13(2)

9月1日(日)三位一体後第11主日・振起日聖餐礼拝
聖書  ルカによる福音書 14章 7-14節
説教  「お返しができない」  服部 能幸 牧師
讃美歌   (開式) 352(2)、431、453、462、(聖餐)471、18、83、86、47、(閉式)13(1)

8月25日(日)三位一体後第10主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 12章 22-34節
説教  「持ち物を共有する」  小西 淳 牧師(久米田教会主任担任教師)
讃美歌    352(1)、505、486、411、354

8月18日(日)三位一体後第9主日礼拝
聖書        ルカによる福音書 9章 10-17節
説教  「飯は天 」  表見 聖 伝道師(三・一教会主任担任教師)
讃美歌    351(4)、210、57、419、354

8月11日(日)三位一体後第8主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 12章 32-48節
説教  「用意」  服部 能幸 牧師
讃美歌    351(3)、19、446、497、354

8月4日(日)三位一体後第7主日・平和主日聖餐礼拝
聖書  ルカによる福音書 12章 13-21節
説教  「ひと休み」  服部 能幸 牧師
讃美歌   (開式) 351(2)、19、446、497、(聖餐)79、18、83、86、47、(閉式)354

7月28日(日)三位一体後第6主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 11章 1-13節
説教  「祈りを教えてください」  服部 能幸 牧師
讃美歌    351(1)、495、フランシスコの平和の祈り、504、62、354

7月21日(日)三位一体後第5主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 10章 38-42節
説教  「良い方」  服部 能幸 牧師
讃美歌     346、395、401、437、340(6、頌栄)

7月14日(日)三位一体後第4主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 10章 25-37節
説教  「半殺し」  服部 能幸 牧師
讃美歌     346、421、461、481、340(5、頌栄)

7月7日(日)三位一体後第3主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 10章 1-12節
説教  「平和は戻ってくる」  服部 能幸 牧師
讃美歌     346、405、357、58、75、18、83、86、47、340(4、頌栄)

6月30日(日)三位一体後第2主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 9章 51-62節
説教  「鋤に手をかけてから」  服部 能幸 牧師
讃美歌     346、443、394、343、340(3、頌栄)

6月23日(日)三位一体後第1主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 9章 10-17節
説教  「日が傾き」  服部 能幸 牧師
讃美歌     346、411、291、81、340(2、頌栄)

6月16日(日)子どもの日・花の日礼拝 CSの子どもたちとの合同礼拝ですので、9:00から始まります。
聖書  使徒言行録 2章 43-47節
説教  「毎日ひたすら」  服部 能幸 牧師
讃美歌     (こども)95、110、54、20、24-2、32

6月9日(日)聖霊降臨節(ペンテコステ)聖餐礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 14章 15-24節
説教  「一緒に」  服部 能幸 牧師
讃美歌     346、314、343、452、467、18、83、86、47、340(1、頌栄)

6月2日(日)昇天後主日聖餐礼拝
聖書  ルカによる福音書 24章 36-53節
説教  「祝福」  服部 能幸 牧師
讃美歌     325、336、337、338、54、18、83、86、47、49

5月26日(日)復活後第5主日礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 14章 22-29節
説教  「真理の霊が来るとき」  服部 能幸 牧師
讃美歌     325、329、341、352、49

5月19日(日)復活後第4主日礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 13章 31-38節
説教  「命を捨てます」  服部 能幸 牧師
讃美歌     325、332、417、480、49

5月12日(日)復活後第3主日礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 10章 22-39節
説教  「わたしと父とは一つ」  服部 能幸 牧師
讃美歌     325、450、327、320、49

5月5日(日)復活後第2主日礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 21章 1-19節
説教  「朝の食事をしなさい」  服部 能幸 牧師
讃美歌     325、323、322、290、453、47、18、83、86、49

4月28日(日)復活後第1主日礼拝(新生)
聖書  ヨハネによる福音書 20章 19-31節
説教  「見ないのに、信じる」  服部 能幸 牧師
讃美歌     325、324、326、329、49

4月21日(日)復活祭聖餐礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 20章 1-10節
説教  「見て、信じた」  服部 能幸 牧師
讃美歌     325、320、321、322、334、47、18、83、86、49

4月14日(日)棕櫚の主日礼拝
聖書  ルカによる福音書 19章 28-44節
説教  「弟子たちを叱ってください」  服部 能幸 牧師
讃美歌     299、307、308、309、47

4月7日(日)四旬節第5主日礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 8章 1-11節
説教  「身を屈め、地に物書く」  服部 能幸 牧師
讃美歌     299、291、297、Ⅰ-133、312、47、18、83、86、47

【 余yoteki滴 】

「床を担いで歩きなさい」

(ヨハネによる福音書 5 章 1 – 18 節)

 

キリストと出会う人は、「38年も病気で苦しんでいる人」(5節)と紹介される。

ヨハネ福音書は、彼が「38年も」ベトサダの池の畔にいた、とは書かない。彼についてヨハネが知っているのは、ただ「38年も病気で苦しんでい」た、ということ。

だから、どういう経緯があって、いつ頃から、彼が、ベトサダの池の畔にいることになったのかは、もはや判らない。

彼には頼るべき人は、誰もいない。

だから彼は、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」(7節)という。

彼には、介護するものも、介助するものもいない。それが「38年」、という年月なのだ、とヨハネは私たちに告げる。

いわゆる「長血の女」が、「財産を使い果たし」、今や、供もなく、たった一人でイエスに後ろから近づくように(マルコによる福音書5章25節以下)、彼はただ一人、ベトサダの池の畔にある。

キリストは、この「38年も病気で苦しんでいる人」に、「良くなりたいか」と問われる。

実は、私は、この「お話し」が嫌い(よく考えてみると、福音書の中の「お話し」は、嫌いなものばかりだ)。特に、イエスさまが、「良くなりたいか」(6節)とお尋ねになるこの個所が嫌い。

「健(すこやか)にならんことを欲するや」(永井直治訳「新契約聖書」)との言葉をイエスさまの口の中に入れる、ヨハネによる福音書を残した信仰共同体が持っている、“病気は治った方がいい”、という思想が嫌い。「病気」はそんなに簡単に治らない。そう、昔も今も。

「病気」は、私の一部。というよりも「病気」である私が、私。

付言しておくが、私は、病気である状況を達観しなければならない、と言っているわけでも、思っているわけでもない。病気の進行を止められないのは、もどかしいし、進んで行く状況を納得するのは本当に難しい。

それでも、「なんぢ癒えんことを願うか」(文語訳)という発想のうちにある健康至上主義が、私は嫌い。

「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(8節)とキリストは命じられる。

ヨハネ福音書研究の先生方がどうおっしゃるのか、私には判らないが、キリストは、この人に確かにこう言われたのだと思う。イエスは、「38年も」病いと共にある人に、「よくなりたいか」などとは言われない。自明のことだし、無神経でもある、そのようなことを。

キリストの言葉は、むしろもっと直接。キリストは、私に、「起きよ、汝の床を取り上げよ、且つ歩め」(永井訳)、そう言われる。

キリストが私に命じられるのは、「起きよ」ということ。健(すこやか)になったからなのではない、癒やされたから歩みだせ、というのではない。

キリストは、私に、あなたのそのままで、今のままのあなたのままで、「起きよ」とお命じになる。

変化は、病状や体調ではない。

変化は、キリストの命令を聞いて、それを行う、ということ。

ぶざまな、不甲斐ない、劣悪になりつつある状況のままで、「起きよ」との御言葉に従う、ということ。

彼は歩き出す。

「この人はすぐに良くなっ」たとヨハネは記す。何度も言うが、「良くなる」ことが歩き出すことの前提だと思っているヨハネ福音書が、私は嫌い。そういう「健康な発想」が、私は嫌い。

ところで、どうも、6月中のあれこれの疲れが、どっと来て(教区総会もあって、慣れない“仕事”をしたので。“仕事”がちゃんと出来るようなら、牧師にはなってはいない。あっ、これは私の場合であって、世の中の牧師先生方は違います。念のため)、こりゃあ、ちっと休まないと無理かな、と思っていたら、どうしても幼稚園に顔を出さなければならなくなって、「お預り」で残っていた子たちと折り紙をして遊んでしまった。そうしたら、治りかけていた気管支炎の上に、彼ら彼女らから鼻が出る風邪までちゃんといただくこととなってしまった。

確かに私も生まれた時からの病いを抱えてはいるが、でも、「38年」も病いと共にあるこの男性と私は、全然違う。彼の苦しみを、私は十全に理解することができないし、彼の悲しみを言い表す言葉を持ってはいない。

私がわかるのは、この人は、歩き出したのだ、ということ。彼は歩き出す。「床を担いで歩きだした」。

彼は、どこに向かって「歩きだした」のだろうか。「長血の女」に、もはや財産も家も家僕もないように、この人にも、家も、友も、帰るべき処も、もはやない。彼は行くべき目的地を思いつかない。そして、彼にあるのは、「床」だけ。

彼に命じられているのは、彼が持っているものの全てである「床」を担いで歩み出せ、ということ。彼が抱えている病いを、そのまま傍らに抱きかかえたままで、歩みだしなさい、ということ。それでは、彼は、“どこに”、向かって歩み出すのか。

彼は、ヤケになって歩く。「ユダヤ人たち」と接触し、自分がどうして歩いているのか、その意味を考えさせられる。そして彼は、自分が歩み出すきっかけになったその人を知らない、と気づく。「だれであるか知らなかった」(13節)。

知らないのだ。私たちは。

キリストに出会っている、ということを知らないのだ、私たちは。

床を担いで、ベトサダの池(つまり自分を健康にしてくれる「何か」)と決別して、“どこか”に向かって歩みだしたのに、私がそのように始めたのは、自分で決断したからだと思っているので、「その人」に依拠した結果なのだ、と気づくことができないのだ、私たちは。

彼は、“どこに”、行くのか。

彼は、キリストを求める歩みへと踏み出して行く。

彼は、同胞である「ユダヤ人たち」がキリストを知らない、ということを見極める。「律法」は、自分が行く“どこか”ではない、と気づく。

彼は、キリストと出会うまで歩む。そして神殿で出会う。正確には、キリストは彼を見つけてくださる。「イエスは、神殿の境内でこの人に出会って」くださる(14節)。

そして、彼の生き方が変わる。

彼は「この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた」(15節)。

彼には、今や、“どこに”行くのか知っている。

彼が行くのは、「自分をいやしたのはイエスだ」と知らせるため。

その知らせを必要としている“どこか”に向かって歩みだす。

そのために、今いる場所を「立ち去って」行く人へと変えられる。

彼は、自分の床を担いだまま、変えられる。彼は、私が床を担いで歩いているのは、私を癒してくれたのはイエスだ、と告げ知らせるためなのだ、と語る人へと変えられる。

そして私は、床を担いで歩く勇気もなく、園児たちにいただいた「風邪」を持て余して布団に入り、体温計がピピッと鳴るのを待っている。