余 yoteki 滴  2017年12月3日

「もし、お前が正しいのなら」(創世記4章7節)

「カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た」(3節)。でも、神はカインをかえりみない。そして神は、カインにこう言われる。

「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」(6-7節)。

私には、この神さまの言葉が判らない。

と言うよりも、キライ。

“正しい”と、私が思っていても、顔を上げることができないことは、ある。というよりも、その方が多い。

怒りがある時に、顔を伏せて、その怒りを自分の内に堆積させることもある。というよりも、その方が多い。

怒りで奥歯を噛み砕く事もあるし、怒髪天をつく事もあるし、中国の故事(だったと思うけれども)で言うのであれば、怒りの内に叩頭して、ついに額を打ち割って死んでしまうことも、ある、と思う。

神はそういう人の思いを理解してくださらないのか。私は、いつでもカイン。

神の前に顔を伏せるしかない、そういう自分を持て余すカイン。

神は、なぜ顔を伏せて怒りを鎮めようとするカインの“気持ち”を聞いてくれないのか。

神とは、そのように私に、カインに、寄り添う方では決してない、ということなのか。

怒りは、顔を伏せさせる、と私は思う。主の“正しさ”を尋ねる怒りは、いつでも私の顔を伏せさせる。

怒りは、悲しみと「双子」。

怒りの半分は、悲しさ。

だから私は、主の前に顔を伏せる。そしてカインを思い出す。「カインは激しく怒って顔を伏せた」(5節)と聖書は記すが、カインの「激しい怒り」は、「双子」の「悲しみ」を伴ってカインの心中に発している。そして、「怒り」と「悲しみ」という「双子」は、「絶望」という「卵」を温めている。心の内に、「絶望」が孵った時、カインは、「兄弟」アベルを殺す。自分の心を切り裂く。

神はそのようにカインを追い込まれる。

私はそういう神さまがキライ。

追い込まれ、心の内に「絶望」を孵化させてしまうカインに、私に、私は肩を落とす。私は神さまのなさりようが判らず、神の前に空回りする。

さて、この聖句は11月28日のローズンゲン。私は、この気持ちを持て余しつつ週日を過ごしていた。

というのも、私はその前日(11/27)、福島の白河教会で葬儀に列していた。67歳で地上の生涯を終え、主の前に帰った牧師の葬送式。

彼は富山の教会に仕えている時に病いを得、不自由な思いをしながら、主が用いてくださる仕方で、教会に仕えて来た。

彼が病いを得た時にも、私は、“主よ、どうしてなのですか”、と主に尋ね、主の前に怒り、顔を伏せた。

彼の召天の報に接した時にも、“主よ、なぜなのですか”、と主に尋ね、主の前に怒り、顔を伏せた。

彼は、19日の主日に、或る教会で説教の奉仕をし、翌日倒れ、22日に帰天した。最後まで主の僕であり続け、神の前に献げものを、実りを、持って来る歩みを続け、そして取り去られた。

木曜日(11/30)のローズンゲンは、出エジプト記33章17節。

『主はモーセに言われた「あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである」』。

私は、“いいかげんにしてくれ”と思う。

モーセにここまで言ってくださるのであれば、カインに、そのほんの少しでも、なぜ、声を掛けてくださらないのか。

“主よ、私は至らないものですから、「好意を示し」ていただく程もののではない事は知っています。でも主よ、あなたの選択の基準が私に判りかねます”。

私の心はそう叫ぶ。

叫びつつ、私は『ハイデルベルク信仰問答』をめくっている。

『ハイデルベルク信仰問答』問127(問「第六の願いは何ですか」)の答は次のとおり。

「われらをこころみにあわせず、

悪より救い出したまえ」です。

すなわち、

わたしたちは自分自身あまりに弱く、

ほんの一時(ひととき)立っていることさえできません。

その上わたしたちの恐ろしい敵である

悪魔やこの世、また自分自身の肉が、

絶え間なく攻撃をしかけてまいります。

ですから、どうかあなたの聖霊の力によって、

わたしたちを保ち、強めてくださり、

わたしたちがそれらに激しく抵抗し、

この霊の戦いに敗れることなく、

ついには完全な勝利を収められるようにしてください、

ということです。

(『ハイデルベルク信仰問答』吉田隆、訳、新教出版社)

カインが心の内に「絶望」を羽化させてしまったように、私も、心の内に「神への懐疑」を育てている。この卵は、「怒り」と「悲しみ」という「双子」があたためていたもの。私の心は、カインの心は、その揺籃になる。

そして、それは500年前に、『ハイデルベルク信仰問答』を残した人々も同じ。

彼らは、戦乱、凶作、飢餓、疫病、不信、振りかざされる正義、の只中で、カインの心を抱えている。自分自身の内側に「恐ろしい敵」を抱えている。だから、カインの心と同じにならないために「激しく抵抗」する道を選ぶ。

確かにそれはりっぱ。

でも私は、その“健全さ”にもうんざりする。私はそんなに健康ではない。

怒りの中で、奥歯を食いしばってそれに耐えることは出来ても、「激しく抵抗」して「ついには完全な勝利を収められるように」と祈る健康さを、私は、生きてはいない。

だから私は、『ハイデルベルク信仰問答』のこの答えに感銘を受けつつも、その祈りの深さに驚嘆しつつも、私はその前に立ち止まるしかない自分を生きる。

神の遠さを思い、カインである私は、でも私が「兄弟」を殺さない生き方をするには、私は神に何を願って行けばいいのかと尋ねるために、私は、歩んで行く。

キライな神さまに尋ねるために歩んで行く。この一週間もそうであったように、これからも。

キライな神さまの前を、行きつ戻りつしつつ、歩んで行く。

先に御国へと帰った同期の教師の、神の前での柔らかな歩みを思い起こしつつ。

余yoteki滴 終末節黙想

「自分の財産」 マタイによる福音書25章14節

(2017/11/19 終末前主日に)

 

14自分の財産を預けた

 

キリストは、天の国は、私たちに神が「己が所有(もちもの)を預くるが如し」、と言われる。

神は、私に預けてくださる。御自身のものを。

「預かる」というと、何か消極的な印象。でもこの字は、「委ねる」、「託す」とも言い得る。

私たちに、キリストは託してくださる、委(まか)せてくださる、御自身の所有(もちもの)を。

 

16五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンもうけた。

 

「商売」と新共同訳は翻訳している。が、この語は、「働かす」という意味。「商売」というよりも貨幣を働かせる(という意味での)「投資」とか「運用」というニュアンス。文語訳は、「五タラントを受けし者、は直(ただ)ちに往(ゆ)き、之(これ)をはたらかせて、他に五タラントを贏(もう)け」と「はたらかせて」と訳している。資産運用と言うべきか。

 

で、文語訳は「儲ける」というところに、「贏(もう)ける」という漢字をあてている。中国の古い字書である「説文解字」では、この「贏(エイ)」という字を、「有餘、賈利也。从貝エイ(「贏」という字の下の月と卂(あるいは凡)の間が貝ではなく女)聲」と説明している。よって白川静は、「貝を財利の意と解するものであろう」と説明する(「字通」)。つまり、「贏」という字には、賈しての余利、余剰、利ざやという意味が強い、ということ。

 

16ほかに五タラントンもうけた。

 

あるいは、私たちは、発想を転換して次のように考えた方がいいのかも知れない。

神が、御自身の所有(もちもの)を預け、託して行かれるのが、「天の国」なのだとすると、神から託されたもので「もうける」ということが推奨されているのでは、ない、ということ。

神の「所有(もちもの)から利ざやを得るなどということよりも、神から託された「タラント」を、恵みを、祝福を、5タラントンもの大量の賜り物を、余さず人のために用いることこそが、求められているのではないか、と。

もちろん彼らは「宜(よ)いかな、善(ぜん)かつ忠(ちゅう)なる僕(しもべ)」と言われる。でも、本当に神の所有(もちもの)に対して忠実な良い僕は、託されたもので余剰を得るのではなく、ましてや、「汝(なんじ)のタラントを地(ち)に藏(かく)しおけり」とするあり方でもなく、主人が帰ってきた時に、

“託されたあなたのタラントは、ご覧ください、他者のためにきれいに使い尽くしました”、

ということができる歩みなのではないだろうか。

余yoteki滴 終末節黙想

「ともし火」 マタイによる福音書25章1-13節

2017/11/12(終末前々主日に)

1そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。

キリストは、このように、地上での最後の説教をはじめられる。

このイエスの教えは、

12わたしはお前たちを知らない

とくくられる。

この句は、マタイによる福音書7章23節の

あなたがたのことは、全然知らない

と対応する。

キリストの、地上での最初の説教である「山上の垂訓」がそのように締めくくられるのに対応する。

 

と言うのも、マタイによる福音書を残した信仰共同体は、その位置がどこであろうと、ユダヤ教共同体からも、或いは、多神教社会からも隔絶した陸の孤島のような、大海に浮かぶ島のような小さな共同体。

そして、その共同体は、イエスを「義の教師」として信じ、その教えを生きようとする群れ。

でもだから、

自分たちがイエスの教えを生ききれない、ということを知っている。

小さい信仰、「小信仰」と呼ばれてしまう、信仰的な弱さを生きている自覚がある。

主から教えられた信仰を生ききることができない、自分たちの(信仰を生ききることができない、という)弱さ、至らなさを、終末の切迫という感覚の中で、自分たちの悩み,、困難として受け止めている。そして、「あなたたちのことは、全然知らない」と、終末の時に主に言われてしまうのは、私だ、との自覚に生きている。

 

だから、

主から「わたしは、お前たちを知らない」と言われるであろう信仰の弱さを、でも、信仰に踏みとどまり続ける歩みを、次の世代に伝えて行かなければならないと思っている。

そして、

それでも自分たちがイエスから教えられ生きてきた信仰を、書き記して次世代に伝えて行こうとしている。

 

先日、皆川達夫先生の講演を聴く機会があった(2017年11月11日。立教大学)。

その中で、皆川先生がキリシタンの信仰を「キリスト教的礼拝をする多神教信仰」とおっしゃった。いろいろな評価があると思うが、概ねそういうことであろうと思う。

 

キリシタンの人たちが、「サンタ・マリアさまの御像はどちらですか」とプチジャン神父に尋ねたのは、1865年3月17日。この日を「長崎信徒発見日」という。そのことをきっかけにして、浦上四番崩れという過酷な迫害を、江戸幕府−明治政府は起こす。

 

いずれにしても、キリシタンからカトリックに回帰した人たちと、今でもキリシタンの信仰に留まっている人たちとがいる。隠れてはいないわけですが、キリシタンとしての信仰を生きている。で、それはキリスト教かというと、難しい。皆川先生が言うような「キリスト教的礼拝をする多神教信仰」というのが正しいのだと思う。200年、300年と経つうちに、信仰が変質して行く。それは或る意味、自然なこと。

 

だから、マタイによる福音書を残した信仰共同体も、自分たちがイエスから受けた信仰が、最初の信仰とは違ってきているのではないか、ということへの危機感、そういうものを強く感じて、そして、福音書を残して行かなければならないと感じている。次の世代に伝えて行かなければならないと感じている。

 

1十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。

さて、10人のおとめがともし火を持って、花婿を出迎えに行く。

2そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。

 

私はいつでもこの箇所を読み間違える。五人は賢かった、五人は愚かだった、の順番ではないかと思ってしまう。

 

なぜ、「愚か」といわれている「おとめ」たちが先なのか。

「賢い」と訳されている言葉は、勉強ができるとか、成績が優秀だ、とか言う意味ではない。調和的で、回りに配慮できる、ということが、ここでは、「賢い」と訳されている。

 

では、「愚か」とはどういう意味なのか。

で、私は、マタイによる福音書を残した人たちが、自分たちのことを「愚か」なおとめの方になぞらえているからなのではないか、と思う。

先に言ったように、マタイによる福音書を残した信仰共同体は、この世の他の人たち、ユダヤ教共同体であれ、多神教の世界に生きる人たちであれ、そういう人たちから浮き上がって生きている。

調和的に、この世の他の立場の人と融和的に(或いは宥和的に)生きることができない。それをすると、自分たちがイエスから教えられた生き方が変わって行ってしまう。

キリシタン信仰が、キリスト教信仰から次第次第に変質して離れて行かざるを得なかったように、イエスから教えられた生き方が、変質して行くのではないか、と恐れている。

だから、この世の人たちから見れば、「愚か」としか言えない生き方しかできない。

他の人々から隔絶して生きるしかない。

それゆえ、「愚か」なおとめのことを、マタイによる福音書を残した人たちは、自分たちのことだと感じる。

 

3愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。

4賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。

5ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。

「愚か」と言われているおとめ達も、「賢い」と言われているおとめ達も、共に眠り込んでしまう。

眠ってしまうのは一緒。

眠ってしまうのは咎められていない。

ゲッセマネでキリストが祈っておられる時に、弟子たちは皆、眠ってしまう。確かにキリストは、「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか」(マタイによる福音書26章40節)とおっしゃるが、それは叱責ではないし、眠ってしまったことで弟子失格になるわけではない。

では、何が「愚か」なのか?

油を持って来なかったことか?

花婿の到着は遅れに遅れて、真夜中になった。やっと「花婿だ。迎えに出なさい」との声がする。寝ていた10人のおとめは、皆、起き出して「それぞれのともし火を整えた」。

 

8愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』

9賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』

「愚か」なおとめ達が「消えそうです」と言った時、「買って来なさい」というのは「賢い」のではなく、意地悪ですよね。コンビニエンスストアがあるわけではないのに、「買って来なさい」はないと思う。まあ、「乙女」というものは、意地悪なもの、なのかもしれないが。

 

第一、この時、10人のおとめ達のともし火は、消えてはいない。

「愚か」なおとめ達のともし火も、「消えそう」なのであって、消えてはいない。

ところが、この「愚か」なおとめ達は、「買って来なさい」という、賢い、じゃなくて意地悪な、おとめ達の言葉に従ってしまう。

 

では、「油」とは何か。

信仰は、他人から継ぎ足してもらえるものではない。

他人からもらえるものではない。

渡辺信夫先生が書かれた若い頃の説教集『イサクの神、ヤコブの神』に、「親の信仰がそのまま無造作に子の名義に書き換えられるのではありません。親への祝福は…これは霊的な祝福ですから、霊的に受け容れられ、霊的に受け継がれねばなりません。…神の契約は永遠的なものですが、それは一代一代更新されるということによって永続するのです」(p.59以下)という言い方が出て来る。その通りだと思う。偉大な信仰は、引き継げない。

 

信仰は、一人ひとりが、神と対話する中で養われ、深められて行くもの。誰かからもらったりすることのできないもの。

そして、

「愚か」なおとめ達のともし火は、まだ消えていない。

 

祈りは、自分の言葉で祈るものであって、誰かから借りて来て祈ることができるわけではない。もちろん、成文祈禱はあるし、充分に用意された祈りもある。でも、その祈りの言葉に「然り」、「アーメン」と、言えるかどうかは、その言葉が自分のものになっているかどうかにかかっている。

 

さて、「愚か」とは何か。

「愚か」とは、“花婿がきた。迎えに出て来なさい”と言われているその状況、つまり、花婿が到来している、目の前に、ここに、私の前に、キリストが来ておられる、という状況なのに、花婿の前を、キリストの前を離れてしまうということ。

油を買いに行ってしまうということ。

まだ、ともし火は、「消えそう」ではあってもともっている。

なのに、その自分のともし火、信仰を信頼することができず、今、この時、花婿が来ている時に、キリストが来られた時に、その場を、キリストの前を離れてしまう、ということ。

 

私たちは、キリストを待つ間、眠り込んでしまってもよい。

「目を覚ましていなさい」と確かに教えられているけれども、それでも眠り込んでよい。

信仰は、そんな緊張し続けていては保てない。

桂枝雀は、落語は「緊張と緩和」だと言ったが、信仰も「緊張と緩和」。

キリストの前に、いつ来られるか判らないキリストの前におるのだ、という緊張と、そのキリストの前で眠り込んでしまうことが許されるという緩和、安心、神の前におるという安らぎ、それが信仰。

信仰とは、ですから桂枝雀風に言えば、「緊張と安らぎ」です。

でも、

神の前を離れてはいけない。

自分の信仰の弱さ、ともし火のあやうさを知っているのであればなおのこと、キリストの前を離れてはいけない。

油を買いに行く必要はない。

賢く、でも意地悪なおとめの言葉にのせられてはいけない。

 

カトリックの神父さまの言葉なので、私たちにはやや判りにくいが、アルベリオーネ神父の言葉。

カトリックの場合、聖餐式のパン(ホスティア)が、聖櫃或いは聖体顕示器に納められて、礼拝堂(聖堂)に安置されている。神父は、このご聖体を訪問する。そして、今、ご自分の生涯が終わろうとする時に(だと思う)、このように言う。

「わたしは毎日イエスを訪問しにいった。みもとにいこうとしている今、イエスがわたしを迎え入れられ、ご自分を示され、ご自分を明らかに見せられ、そして、顔と顔を合わせて彼を見るようになるという確信がある。わたしはいつもみ顔とその霊とその愛とを捜し求めた。彼はわたしを遠ざけられはすまい」。

キリストの前に留まり続けて、わずかでしかない、小さな信仰を、そのともし火を消すことがないように、消えないように、主に祈る。キリストの前に留まり続ける、それが「愚か」でしかないけれども、でも、「愚か」にならない終末を待ち望む私たちの姿勢なのだと、今日、マタイによる福音書は、私たちに教える。

余 yoteki 滴 2017年7月30日

ヤコブのおはなし

採用されなかった《夏期学校》の劇台本

(第1の場)レンズ豆(創世記25章27-34節)

 

ナレーター  ある日の夕方、ヤコブはレンズ豆の煮物を作っていました。

ちなみに、レシピは次のとおりです。

まず、レンズ豆を収穫します。その際に、虫に食われていたり、割れていたりするのを除きます。

つぎに、レンズ豆をきれいな水で洗います。水に入れた時に、浮いてきた豆は、やはり除きます。

そして、一晩、水につけておきます。

朝になったら、鍋に豆を移し、ゆっくり、ことことと、煮ます。

その時、豆のこと以外、考えてはいけません。

レンズ豆は、赤い豆なので、ヤコブの頭の中は「赤いもの」という意味の「アドム」という言葉だらけになります。

ヤコブ    アドム、アドム、アドム、アドム、(無限に)…

ナレーター  ヤコブの頭の中のレンズ豆と、鍋の中のレンズ豆とが程よく煮えてきたら、岩塩を削って味を整えます。

ヤコブ    アドム、アドム、アドム、アドム、(無限に)…

ナレーター  おっと、草原からお兄さんのエサウが帰ってきました。

エサウ    ヤコブ、お前は朝から何をしているんだ? その鍋の中のアドムは何だ?

ヤコブ    アドム、アドム、アドム、アドム、エドム、エドム、エドム(無限に)…

エサウ    おいヤコブ、お兄さんの私を、今、あだ名の「エドム」で呼び捨てにしたな?

ヤコブ    アドム、エドム、アドム、エドム、アドム、エドム(無限に)…

エサウ    そう何度も人のことを呼ぶなよ。ああ、いいにおいだ。ヤコブ、わたしは疲れきっているんだ、その赤いもの、そこの赤いものを食べさせておくれ。

ヤコブ    アドム、エドム、アドム、あ、お兄さん、お帰りなさい。すみません、レンズ豆を煮ている時には、レンズ豆のことしか考えちゃいけないものですから、お兄さんが帰ってきたのに気がつきませんでした。アドム、エドム、アドム、エドム、えーとエサウお兄さん、何か言いましたか?

エサウ    だから、その赤いもの、そこの赤いものを食べさせておくれ、と言ったのだよ、私は疲れきっているんでね。

ヤコブ    いいですよ。そろそろ美味しく煮えてきたところです。ところで、このレンズ豆の煮物にパンと美味しいハーブティーをおつけしますが、いったい、何と交換しますか?

エサウ    交換したくても、今日は何もとれなかったから、交換するものを持っていないんだ。次に倍にして返すからさ、その赤いもの、そこの赤いものを食べさせておくれ。私は疲れきっているんだよ。

ヤコブ    じゃあお兄さん、お兄さんの長子の権利を譲ってください、それと交換しましょう。

エサウ    私の持っている長子の権利? そんなものでいいのか? 食べられないぞ?

ヤコブ    食べられなくてもいいです。お兄さんの長子の権利を譲ってください。今すぐ、譲ると誓ってください。

エサウ    ああ、もうおなかがすいて死にそうだ。誓うよ。長子の権利は、ヤコブに譲った。

ヤコブ    では、私もレンズ豆の煮物にパンと美味しいハーブティーをつけてお兄さんに譲ります。

エサウ    ありがとう。ではいただくことにしよう。いただきまーす。

ナレーター  エサウは、レンズ豆の煮物を一鍋と、パンと、ハーブティーとを美味しそうに、食べていますねぇ。あ、食べ終わりました。「ごちそうさま」ってヤコブに言っています。うわっ、手の甲で口の回りを拭いました。あっ、その手の甲もなめています。「じゃあ、またあした。おやすみなさい」なんて言っています。あっ、行ってしまいました。

 

・ 今年のCS夏期学校(7/22(土)13:30-19:00)は、「イエスさまの光を映して – ヤコブ物語から – 」と題してもたれました。人数は決して多くはありませんでしたが、楽しい、充実したひと時でした。

・ なお、テーマは「季刊教師の友」7月30日の説教例題から採用されました。7月の「季刊教師の友」の教案がヤコブであるのにあわせて、夏期学校のプログラムは、組み立てられました。

・ 掲載の台本は、不採用になったものです。実際には、楽しく体験できる7場ものの「ヤコブ物語り」が演じられました。

余yoteki滴 説教の前の前、あるいはもっと前 「始まりと終わり」

明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました」。         マタイによる福音書27章62-63節

 

 ☆

思い出した。

「三日後に復活する」そう云っていた。

まったく! この祝いの杯を飲み干そうというこの時に思い出すなんて!何といまいましい! これから、ピラトの所に行こう。

 

☆☆

そうです、閣下。

もしも、もしもです。万が一に、です。あり得ない話しですが、でも、三日後に奴の体がなければ、いや閣下、閣下は、気を悪くなさらいでいただきたい。もちろん仮定の話しです。仮に、いえ、閣下がこの聖なる都(エルサレム)にご滞在のその時に、かような不逞のやからが、閣下のご隷下で何事かをできるはずがないことは、私どもも努々(ゆめゆめ)承知をいたしております。ただ、万万が一という、そういう事でございます。はい。私どもは神殿衛士(えじ)を出しまする、ええ、もちろんです。でも、私どもの衛士(えじ)では、その装備が、はい、軽装でございます。ええ、承知しております。この時節に、閣下の直衛の軍団をお借りするのは、はい、もちろん無理は承知でございます。ただ、万万が一に、はい、仮に、本当に、仮に、でございますが、彼の者の墓が、閣下がおわしますその時に、墓がでございますよ、空(から)になるなどというような事がでございます、はい、もしも、そのような事が発生いたしますと、ええ、そしてその事がローマにまで聞こえまして、皇帝陛下のお耳をけがす、というようなことがございますと、です、いえ閣下、お怒りにならずに。あくまでも、もしも、でございます、はい。もちろんです。私どもは閣下と一心同体でございます。はい、私どもの口は、滅法固いのでございます。はい? 承知しております。ローマ帝国の軍団兵を警備にお出しいただくわけですから。はい、もちろんでございます。閣下には格段のご配慮を願うわけですから。はい。ご英断、感謝いたします。はい。サンヘドリンを代表して謝意を…、はい? あ、おたち…。

 

サンヘドリンの年寄りどもめ。

臆病風に吹かれおって。自分たちで十字架上での死に追い込んでおきながら、亡霊に早くも怯えておるわ。政敵を死に追いやるなど日常茶飯事のローマの政局など、あれではとても生き抜けまい、笑止なことよ。

そうだ。

確か、あの十字架の時に、当番士官であった百人隊長がおったな。コルネリオとか云う大尉、あの者の隊に預けるか。

始まりも見たのだ、終わりも見させよう。

 

◆◆

なに? 例の百人隊長は、あの十字架の出来事の任務の後に、休暇に入った? あげく、除隊を申請して来て、それを認めた?

どうして? 言語明瞭意味不明です? どういうことだ? 何と、あの十字架を直近で目撃して、“かぶれた”、とな。ははっ!、ローマ帝国軍人ともあろう者がか! よいよい、除隊でよい。ああ、構わぬ。何、つまらぬ小遣い稼ぎだ、誰でもよい。そうだな、予備槍兵でも出しておけ。いや、待て。本当に復活したらどうしよう。ええい、何を弱気な事を。予備槍兵でよい。そうだ。それでよい。

 

☆☆☆

結局、金か。

ローマの高官と云いながら、むしり取れるだけむしり取りに来ているだけの者よ。話しをするとこちらの口が腐るわ。

何? こっちは銀30枚を返して来た? バカか。あのようなことに用いた金を、受け取れるわけがないわ。絶対に、神殿に入れるな。市井(しせい)で使え。今はそれどころではないのだ。

予備槍兵だと? ピラトは、ロートルをまわして来たのか。無礼な。

 

☆☆☆☆

だから云わんこっちゃない。彼の者の弟子たちが「復活なさった、復活なさった」と飛んで跳ねておるわ。全くいまいましい。

ピラトはどうした? 何? 祭りの後、すぐにカイサリアに帰っただと? 王は? アンティパス王も一緒に帰っただと? いつからつるむようになったのだ、あのタヌキとキツネは? 

よいわ。金で黙らしておけ。判らぬか? 「事実(ほんとうのこと)」とはな、作るものよ。よいか、小難しい事をならべた「真理(ほんとうのこと)」なるものの前に、理解しやすい「事実(ほんとうのこと)」をぶらさげてやればよいのだ。“死者が復活した”、というのが「真理(ほんとうのこと)」ならば、“弟子たちが盗み出した”、という判りやすい「事実(ほんとうのこと)」を云い広めればよいのだ。この聖なる都(エルサレム)は、いつでもこのように「情報(ほんとうのこと)」を作り出して身を守るのだ、と知らしめてやれ。

ああ、これで本当に祭りの後だな。やっと街が静かになったわ。

 

除隊した。

即応予備士官になった。

予備役編入も悪くないな。

さて、もうこの都市(エルサレム)には用がないな。

カイサリアにでも行って、のんびり暮らすことにしよう。

その内、あの「神の人」の弟子たちが、彼らが知った「福音」を告げに来る時がやって来よう。

私も見た、あの方の事を伝えに、な。

「神の人」の弟子たちの働きを見届けよう。

神は、私に、十字架の死という始まりを見せ給(たも)うたのだ、終わりもまた、きっと見させてくださるに違いないであろう。

 

◎ 参考聖書個所( – 標記以外 – )

・ マタイによる福音書28章11節以下

・ ルカによる福音書23章6節以下

・ 使徒言行録10章1節以下

 

 

余yoteki滴 2017年4月16日

「たまご」

 

ご隠居さん、イースターおめでとうございます。で、えへへ。

「なんだ、変な笑い方だな、その差し出された手は、何を要求しているのかな?」

 

いえね、イースターだから、「ご復活玉」をいただこうと思って。

「『ご復活玉』だって? 聞いたことがないな? なんだねそれは?」

 

お正月には、お年玉。それで、イースターには「ご復活玉」がいただけると。

「ははぁ、どうもすごいこじつけだな。ご復活祭の玉子のことだろう? 確かに、ご復活祭を、玉子をもって祝う習慣があるな。玉子やうさぎがご復活祭の、いわば目印だな。でも、『ご復活祭の玉子』を『ご復活玉』だなんて縮めて云うのは聞いたことがない」

 

いえ、こども衆は「玉子」でいいんですけどね、あっしらは、のし袋に入った「ご復活玉」。

「なんだいそれは。手を出しても、教会でいただいて来た玉子だけだ、あげられるのは」

 

なんだつまらない。

「つまらない、とは何だ。ご復活祭の玉子だぞ。ありがたくいただくと寿命がたんと伸びる」

 

本当ですか? 寿命が伸びるというのであれば、玉子の10(とう)や20(にじゅう)は、…

「おいおい、そんな無理して食べちゃいけない。ほら、そんなにほおばるから。苦しかないか? 寿命が伸びるなんて、戯れ言だよ。信じちゃぁいけない。おや、大変だ。ばあさんや、水をもって来ておくれ。水! あれ? 水って、おまえさん、馬に飲ませるんじゃないんだよ、バケツで水を持って来てどうするんだね? 何、頭からかぶせる? って乱暴な。ほら、目を白黒させてるじゃないか。飲ませる水を持って来てあげなさいって。何? お前さんも苦しいのに何かしゃべろうとしない。えっ? 何んだって? ご復活祭の玉子で苦しい? 判ってますよ。ああ、やっと喉を通った。ああ、びっくりした。大丈夫かね」

 

大丈夫だと思いますがね、いやあ、ご復活祭の玉子でイエスさまの十字架上の苦しみが少し判ったような気がしました。まさにこの苦しみが、“鶏卵のキリスト”なのですね。

「お前さん、それはまさか“荊冠のキリスト”のもじりかね?」

 

はは、ちっと苦しい。

– お後がよろしいようで –

余yoteki滴 2017年4月9日

「枝の主日」

 

ご隠居さん、お迎えが来ました。

 

「おまえさんねぇ、いきなり“お迎えが来ました”、なんて声を掛けてはいけない。そうかなぁ、と思っちゃうじゃないか。何か用かね?」

 

嫌だなぁ、約束してたじゃないですか。花見ですよ、は・な・み! ですから長屋のみんなしてお迎えに来た、と、そう云う訳ですよ。

 

「ああ、そうだったな。でも、今日は行かれない」

 

どうしてですか? ちょうどいいあんばいに咲いていますよ。行くのだったら今日が一番、って感じですけど。

 

「今日はな、“棕櫚の主日”或いは“枝の主日”と云ってな、イエスさまがエルサレムに入城されたことを覚える日だな。そして今日からの一週間を、“受難週”とか“聖週”と呼ぶ。だから私も、斎戒して主のご受難を覚えて過ごす、とそういうわけだ」

 

へえぇ、でも、どうして今日のことを、“棕櫚の主日”って云うんですか?

 

「それはおまえさん、今日、イエスさまがエルサレムにお入りになったな。その時、人々が棕櫚の枝や自分の上着を敷いて、ろばの子に乗ったイエスさまをお迎えした、と聖書に書かれているからだ」

 

イエスさまが今日、エルサレムに入られたとすると、沿道はごった返していたでしょうねぇ。

 

「それでなくとも“過越しの祭”に人が集まっている時だ、エルサレムは人であふれていたな。人の波、というやつだな、歩くのも大変だ。道行く人たちに押されながら歩くようなものだ。その最中に、イエスさまがろばの子に乗ってご入城なさるわけだ。押すな押すな、の人だかりだな」

 

すごいものですねぇ、ところで、エルサレムに桜はないんですか?

 

「そうだな、この時期だと、同じバラ科のアーモンドの花とかが咲くな」

 

そうすると、イエスさまも花見はなさったのですかねぇ。

 

「お前さん、どうしてもあたしを花見に連れて行きたいみたいだな。イエスさまもきっとアーモンドの花は御覧になったと思うな。でも、花見気分ではなかっただろうな」

 

そうでしょうねぇ。ろばの子に乗っているんじゃぁ、なおさらだ。

 

「ん? どうして、ろばの子に乗っていると、花見にならないと思うんだね」

 

だってご隠居、人でごった返している時にろばの子に乗っているですよ、「子ロバ」ないようにするだけでも大変だ。

 

– お後がよろしいようで –

余yoteki滴 四旬節黙想 2017年3月26日

「ぶどう園に行きなさい」(マタイによる福音書20章7節)(その4)

さて、私は、自分の目にある丸太に、気づくことができない(マタイ7:4)。

そして、丸太で目がふさがれているから、私は「不平」を言う(20:11)。

「家の主人」が、神が、何度もなんども、いつの時も、語りかけ、招いてくださった、神と私との「約束」(協定 / 契約)の、その大きさ、無限さには目を向けず、他人が、神さまから恵みをいただく時には「不平」をならす。その「悪しき」思いは、ただ、私の内からのみ、出る。

神は、そねみ、「一歩、一歩を踏み誤りそう」(詩 73: 2)になる私に、「悪しき」を内にかかえ続けている私に、その内側のままでいい、潔(きよ)いとは言えないままでよい、そうおっしゃり、声を掛けてくださる。

あなたも、「ぶどう園に行きなさい」、私のところに来なさい、と。

だから私は、このままで、「悪しき」目のままで、その目を覆いつつ、主のもとへ、「ぶどう園」へ歩み出して行く。

私には、自分の目を覆うことしか、できないから。

「悪しき」目で、主よ、あなたを見ることはできないから(イザヤ書6:5)。

あなたが、そのままでよい、と言ってくださる。

だから、私は、片方の目で、「悪しき」目ではあるけれども、その目を開いて、あなたの「ぶどう園」への道を、捜し求めて歩み出す。

そう、主よ、このままで、私も、あなたの「ぶどう園」への道を、この四旬節に、歩み出す。

あなたの、呼び掛けてくださる声にのみ、信頼して。

余yoteki滴 四旬節黙想 2017年3月19日

「ぶどう園に行きなさい」(マタイによる福音書20章7節)(その3)

私は「家の主人」の声を聞く。風が吹く頃、薄暮の時が来て、暗闇が迫ってくる中で。

時間は、日没前。

一日の仕事が終わり、一日が終わろうとしている時。

だが、ユダヤの人たちの、聖書の、時間感覚では、夕は一日の始まり(「夕べがあり、朝があった」創世記1:5)。

だから、この1デナリオンをいただくこの時刻は、1日分のつとめが終わる時であるとともに、新しい一日の始まりの時。

「家の主人」は、始まろうとする新しい一日のために、1デナリオンを手渡す。

日中の労働の対価、というよりも、もっと積極的に、新しい一日を生きて行くための1デナリオンを、一人ひとりに、預ける。だから、御言葉が響く。

「信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」(ローマの信徒への手紙4:5)と。

それ故、「家の主人」は言う。「気前のよさをねたむのか」(20:15)。

この箇所(20:15)、文語訳は「我よきが故に、汝の目あしきか」。

この訳は、ギリシア語で記された御言葉の雰囲気を、私たちに伝える。

1デナリオンの「協定」(シュラッターの『講解』(日本語訳)での表現)を、そのまま、“値引き”も、“交渉”も、“取り引き”もなしに、守る方である「家の主人」、つまり神の「善」(ぜん /「よき」)に、私は口を挟めない。

そして、「家の主人」である神は、はっきりと、私に、「汝の目あしきか」と言われる。

私の「目」は、最後に来た人から順に、ぶどう園の「監督」が1デナリオンを支払って行くのを見ている。そして、「不平を」言う。私の目は「悪しき」もの。

実は、この聖書の箇所は、2017年の「世界祈禱日」(3月の第1金曜日)の福音書日課。

そして、2017年の「世界祈禱日」の「式文」や「ポスター」(http: //cloister171. blog.fc2.com/ blog-entry-17. html)には、片目を右手で隠し、左手に天秤をもった女性が描かれている。

「式文」を手にした時から、この女性はなぜ片目を手で覆っているのだろうか、と不思議に思ってきた(表紙の絵のタイトルは「垣間見たフィリピンの状況」と記されている)。

やっと気がついた。

15節で、私は、「汝の目あしきか」と言われる。私の「目」は、いつでも「悪しき」もの。

この世の出来事が、ここで、私の前で起こっている現実が、「悪しき」事、なのではない。むしろ、それを見て、「不平を言う」私こそが、「悪しき」目を持っている。

私は、「悪しき」目で、「家の主人」のなさるさまを見ては、「不平」を言う。

さらに、「不平」という口を挟んでは、神の「善」(ぜん /「よき」)を軽んじている、のだと。(以下次回)

2017年度 礼拝予定・行事予定

2017年度 礼拝予定

3月25日(日)棕櫚の主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 15章 1-5節
説教  「ピラトは不思議に思った」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、494、308、311、89

3月18日(日)四旬節第5主日礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 12章 20-33節
説教  「わたしは、心騒ぐ」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、290、308、309、89

3月11日(日)四旬節第4主日礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 6章 4-15節
説教  「どこでパンを買えばよいだろうか」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、289、300、504、89

3月4日(日)四旬節第3主日聖餐礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 2章 19-22節
説教  「建て直す」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、291、299、305、475、83、86、89

2月25日(日)四旬節第2主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 8章 31-38節
説教  「自分の十字架」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、1編143、433、1編495、89

2月18日(日)四旬節第1主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 1章 9-13節
説教  「荒れ野」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、284、1編120、1編137、89

2月11日(日)大斎節前主日・創立記念日(信教の自由を守る日)聖餐礼拝
聖書  マルコによる福音書 9章 2-9節
説教  「口をはさんで」  服部 能幸 牧師
讃美歌 53、285、1編182、1編247、79、83、86、88

2月4日(日)顕現節第5主日聖餐礼拝
聖書  マルコによる福音書 1章 29-39節
説教  「戸口に集まった」  服部 能幸 牧師
讃美歌 53、1編120、1編175、362、78、83、86、88

1月28日(日)顕現節第4主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 1章 21-28節
説教  「正体は分かっている」  服部 能幸 牧師
讃美歌 53、1編226、1編233、577、88

1月21日(日)顕現節第3主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 1章 14-20節
説教  「神の国は近づいた」  服部 能幸 牧師
讃美歌 53、226、283、287、88

1月14日(日)顕現節第2主日礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 1章 43-51節
説教  「出会った」  服部 能幸 牧師
讃美歌 53、189、185、158、88

1月7日(日)顕現節第1主日聖餐礼拝
聖書  マルコによる福音書 1章 7-11節
説教  「神がなさった証し」  服部 能幸 牧師
讃美歌 53、276、277、410、390、83、86、88

12月31日(日)降誕節第1主日(歳晩主日)礼拝
聖書  ルカによる福音書 2章 22-40節
説教  「啓示の光」  服部 能幸 牧師
讃美歌 278、181、275、276、89

12月24日(日)イブ燭火礼拝       19:00~
聖書  ルカによる福音書 1章 1-14節
説教  「あたながたは、見つけた」  服部 能幸 牧師

12月24日(日)待降節第4主日クリスマス聖餐礼拝
聖書  ルカによる福音書 1章 26-38節
説教  「この挨拶は何のことか」  服部 能幸 牧師
讃美歌 228(4、頌栄)、175、246、248、232、83、86、89

12月17日(日)待降節3主日礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 1章 6-9節
説教  「光について」  服部 能幸 牧師
讃美歌 228(3、頌栄)、231、177(輪唱)、236、89

12月10日(日)待降節第2主日礼拝
聖書  マルコによる福音書 1章 1-8節
説教  「洗礼者ヨハネがあらわれて」  服部 能幸 牧師
讃美歌 228(2、頌栄)、193、234、241、89

12月3日(日)待降節第1主日聖餐礼拝
聖書  マルコによる福音書 13章 32-37節
説教  「目を覚まして」  服部 能幸 牧師
讃美歌 228(1、頌栄)、230、246、473、74、83、86、89

11月26日(日)終末主日/収穫感謝祭全体礼拝
聖書  列王記(上)8章 27-34節
説教  「『わたしが建てたこの神殿』って言っちゃうソロモン」  服部 能幸 牧師
讃美歌 こども(讃美歌21)   5(ー)、118(544)、101(ー)、122(419)、24-2(64)、25(24)

11月19日(日)終末前主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 25章 14-30節
説教  「自分の財産」  服部 能幸 牧師
讃美歌 482、411、566、577、488

11月12日(日)終末前前主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 25章 1-13節
説教  「ともし火」  服部 能幸 牧師
讃美歌 482、230、453、575、488

11月5日(日)召天者記念日聖餐礼拝
聖書  マタイによる福音書 23章 1-12節
説教  「へりくだる者は高められる」  服部 能幸 牧師
讃美歌 482、382、573、572、76、18、83、86、42-1、488

10月29日(日)三位一体後第20主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 22章 34-40節
説教  「主を愛しなさい」  服部 能幸 牧師
讃美歌 482、475、517、563、488

10月22日(日)三位一体後第19主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 22章 15-21節
説教  「神のものは神に」  服部 能幸 牧師
讃美歌 482、456、497、543、488

10月15日(日)三位一体後第18主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 22章 1-14節
説教  「選ばれる人は」  服部 能幸 牧師
讃美歌 482、378、440、576、488

10月8日(日)三位一体後第17主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 21章 33-43節
説教  「相続財産」  服部 能幸 牧師
讃美歌 482、464、441、430、488

10月1日(日)三位一体後第16主日・世界聖餐日・聖餐礼拝
聖書  マタイによる福音書 21章 28-32節
説教  「あなたたちはどう思うか」  服部 能幸 牧師
讃美歌 482、151、487、539、375、83、86、488

9月24日(日)三位一体後第15主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 20章 1-16節
説教  「ふさわしい賃金」  服部 能幸 牧師
讃美歌 482、226、535、562、488

9月17日(日)三位一体後第14主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 18章 21-35節
説教  「七の七十倍までも」  服部 能幸 牧師
讃美歌 482、413、459、461、488

9月10日(日)三位一体後第13主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 18章 15-20節
説教  「ほかに一人か二人」  服部 能幸 牧師
讃美歌 482、361、408、458、488

9月3日(日)三位一体後第12主日・振起日・聖餐礼拝
聖書  マタイによる福音書 16章 21-27節
説教  「褒められた後」  服部 能幸 牧師
讃美歌 482、211、232、356、488

8月27日(日)三位一体後第11日礼拝
聖書  マタイによる福音書 16章 13-20節
説教  「叱られる前」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、228、400、468、49

8月20日(日)三位一体後第10主日礼拝
聖書  コリントの信徒への手紙(2) 5章 1-10節
説教  「主に喜ばれる者でありたい」  小西 淳 牧師
讃美歌 4、576、537、458、49

8月13日(日)三位一体後第9主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 14章 22-33節
説教  「主はみ手を伸ばして」  浜田 望 長老
讃美歌 4、18、459、419、49

8月6日(日)主の変容・三位一体後第8主日・平和聖日聖餐礼拝
聖書  マタイによる福音書 17章 5節
説教  「夕暮れになった」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、285、371、535、454、83、86、49

7月30日(日)三位一体後第7主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 13章 44-52節
説教  「畑に宝が」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、394、412、566、49

7月23日(日)三位一体後第6主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 13章 24-43節
説教  「毒麦も現れた」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、183、539、566、49

7月16日(日)三位一体後第5主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 13章 1-23節
説教  「蒔かれたもの」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、450、503、540、49

7月9日(日)三位一体後第4主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 11章 25-30節
説教  「休ませてあげよう」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、497、506、516、49

7月2日(日)三位一体後第3主日聖餐礼拝
聖書  マタイによる福音書 10章 37-42節
説教  「冷たい水を一杯」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、528、560、576、76、83、86、49

6月25日(日)三位一体後第2主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 10章 26-33節
説教  「『知らない』と言われてしまう時」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、211、482、543、49

6月18日(日)三位一体後第1主日礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 6章 51-58節
説教  「『わたしはパン』発言は激論になる」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、56、457、461、49

6月11日(日)三位一体主日・花の日こどもの日全体礼拝 (9:00開始)
聖書  マタイによる福音書 6章 25-34節
説教  「思い悩むな、って言われても」  服部 能幸 牧師
讃美歌 (こども)114(21-470)、94(ー)、118(21-544)、24-2(21-64)、32

6月4日(日)聖霊降臨祭(ペンテコステ)聖餐礼拝
聖書  使徒言行録 2章 1-13節
説教  「新しいぶどう酒に酔っている」  服部 能幸 牧師
讃美歌 4、341、343、392、419、83、86、49

5月28日(日)復活後第6主日(ききたまえ)礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 15章 26 – 16章 4節
説教  「ひとつのことを主に願い」  新井 美穂 牧師
讃美歌 319、211、336、482、49

5月21日(日)復活後第5主日(いのれ)礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 14章 15-21節
説教  「心の中で」  新井 美穂 牧師
讃美歌 319、236、321、430、49

5月14日(日)復活後第4主日(うたえ)礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 14章 1-14節
説教  「その道を知っている」  新井 美穂 牧師
讃美歌 319、316、492、539、49

5月7日(日)復活後第3主日(よろこべ)聖餐礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 10章 1-10節
説教  「我は羊の門」  新井 美穂 牧師
讃美歌 319、391、324、97、453、83、86、49

4月30日(日)復活後第2主日(主のあわれみ)礼拝
聖書  ルカによる福音書 24章 28-35節
説教  「あなただけはご存じなかった」  新井 美穂 牧師
讃美歌 319、334、506、540、49

4月23日(日)復活後第1主日(新生)礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 20章 24-31節
説教  「命を受けるため」  服部 能幸 牧師
讃美歌 319、441、411、328、49

4月16日(日)復活祭墓前礼拝
聖書  コロサイの信徒への手紙 3章 1-4節
説教  「上にあるものを求め」  服部 能幸 牧師

4月16日(日)復活祭(イースター)聖餐礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 20章 1-10節
説教  「外に出て墓に行った」  服部 能幸 牧師
讃美歌 319、325、333、572、562、83、86、49

4月9日(日)棕櫚の主日礼拝
聖書  マタイによる福音書 27章 62-64節
説教  「『三日後に復活する』と言っていた」  服部 能幸 牧師
讃美歌 308、294、300、411、43-3

4月2日(日)四旬節第5主日《ユディカ(あなたの裁きを》礼拝
聖書  ヨハネによる福音書 11章 23-30節
説教  「すぐ立ち上がり、イエスのもとへ」  服部 能幸 牧師
讃美歌 308、502、311、292、298、83、86、43-3