余yoteki滴

「あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です」

(コロサイの信徒への手紙2章10節)(その1)

 

この聖句を一年間かかげて、伊勢原教会は、2018年度をはじめます(3/18の総会で年間聖句として決議。なお、年間標語は、「主こそが私たちの信頼の源泉(みなもと) - 神とともに。喜びのうちに -」)。

伊勢原教会は、決して、この世、社会に対して大きな影響力を持つことのできるような集団ではありません。むしろ、無力で、無名な小さな信仰者の群れです。

でも、私たちは、小さくても、この世において無力でしかなくても、「キリストにおいて満たされている」という恵みによって私たちも満たされている、ということを知っています。そしてそのように知らされている者として、キリストこそが「すべての支配や権威の頭」である、との福音をこの世に対して明瞭に宣べて行く教会でありたい、と主に願っています。

何かをすること、何かを成し遂げること、何かであろうとすること、が目的なのではなく、教会は、キリストの満ち満ちておられるところであるから、キリストこそが私たちを器として用いて、この世の中に福音の良き香りを語らせてくださるのだと、そのように信じ歩む一年間でありたいと、2018年度を始める前に、私たちは切に神の前に祈って、そして歩み出したいと願っているのです。

(2018年3月25日の「週報」に掲載)

余yoteki滴 四旬節黙想(2)

「あなたは獣をも救われる」(詩 36 篇 7 節)

 

3月18日のローズンゲンから。

 

詩人は見ている、というよりも、囲まれている、と言うべきだろうか。

床の上で悪事を謀り

常にその身を不正な道に置き

悪を避けようとしない(5節)

人たちに。

詩人は、そのように生きる人たちの「生きやすさ」を知っている。

モラルとか倫理とかに従うことをしない生き方の安易さを知っている。

でも、そしてそれは、「不正な道」を歩むことだということも。

 

で、詩人は、ひとり空を見上げる。

謀議の席、不正な、偽りにみちた密議がなされている席を抜け出して、空をあおぐ。夕であろうか。それとも、朝であろうか。

詩人は、

主よ、あなたの慈しみは天に

あなたの真実は大空に満ちている(6節)

とうたう。

謀略を巡らす席で、顔を寄せあい、低い声で、高く視ることなく、自分の利益のみを計算し、都合の良いことだけをささやき、下へ下へと降って行くだけの思考を振り払うように、詩人は空を見上げる。

 

そして「虚」でしかない、「無」でしかない大空に、神の真実が満ちているのを知る。

詩人は、地の底に隠れて密議しようと、

恵みの御業は神の山々のよう

あなたの裁きは大いなる深淵(7節)

である以上、神からは逃れ得ないのだということを深く思う。

詩人は、今や自分の心が、エデンの園で木陰に隠れる「人」のように、神が歩むのを聞いて畏れて逃げ出す「獣」のようであると知る。

 

その上で詩人は、

主よ、あなたは人をも獣をも救われる

と覚悟する。

神の慈しみと真実とが大空に満ちている以上、いつでも主が私をご覧になっておられるのを、私は知らなければならない。詩人はそう悟る。

策略の間(ま)に座っていても、奥深い一部屋で利権を操っていても、神が見ておられない、ということはないのだ、と知る。

そして神は、そのことを深く思う私の、獣の心さえも救われるのだ、と詩人は悟る。

では、私は…。

余yoteki滴

「あなたがたの中で病気の人は教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」(ヤコブの手紙5:13)

 

私は、いつでも不思議な思いに捉われる。葬儀の諸式に出席しないと、その人の死というものを実感できない気がする。

人は、“死”を経験することはできないから、他者の“死”をもって、“死”を、いわば“擬似的に”体験する。

だから、“死”は、通知をもって始まる。“亡くなりました”という一報が、その人と私とが、死と生という区別によって隔てられたのだ、と知らせる。

ヤコブは、「病気の人は教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」と記す。ここで語られる「長老」という役職は、聖職位としての、のちの「司祭」なのだろう。そして、「塗油(終油)」という「秘跡」(サクラメント)は、ここから導き出されてゆく。

もちろん、プロテスタント教会は、「聖礼典」(サクラメント)を「洗礼」と「聖餐」の2種としたから、「塗油(終油)」を「聖礼典」(サクラメント)として行うことはない。それでも牧師は「枕辺の祈り」を祈る。そしてそれは、「教会の長老」としての“機能”なのだと聖書は、私に教える。

「教会の長老」は、他者のために祈る、という“機能”を負う者。ペトロは次のように記す。「わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい」(ペトロの手紙(1)5:1-2)。「長老」の“機能”は、「神の羊の群れを牧」すること。「世話を」すること。その内に、死への備え、というものがあるということであろう。

余yoteki滴 

「天の軍勢」(ルカによる福音書2章13節)2017年12月31日

えー、昔はと申しますと、どこに行くのも自分で歩(あゆ)んで行くわけでして、イエスさまの時代も、歩(あゆ)むか、ろばに乗るかぐらいで。道中は難儀でございますな。野宿になることもしばしばです。ですので、宿に着きますと、これはもう、ほっと、いたしますな。

 

イハッチ   えー、お客さま。ようこそベツレヘムへ。この宿の番頭のイハッチでございます。宿帳をお書きいただきたいと思いまして。

コルネリオ  うむ、拙者はローマ帝国第十一軍団のコルネリオ大尉である。シリア属州のイタリア隊まで参る。あー、番頭。昨夜は、ま狭な宿でな、住民登録の夫婦連れやら巡礼客やらと一緒で、子どもが泣くやら、巡礼客がご詠歌を詠うわで、眠ることすら出来なんだ。今日は、どこでもよい、静かな一間(ひとま)を頼むぞ。

イハッチ   はい、コルネリオさま。私どもではごゆっくりお寛ぎいただけるものと存じます。

 

ところが、夜になりますと、隣の部屋の羊飼い達が大騒ぎをいたします。

 

羊飼い1   おい、昨日の話しをもう一度してみろよ。

羊飼い2   なんだよ、もう眠いのにまたあの話しか?

羊飼い3   ちゃんと起きていたのはお前だけなんだから、よーく聞かせてくれ。

羊飼い2   しかたがないな。ほれ、昨日の夜も、俺は羊達と一緒にいたわけよ。そうしたら、真夜中なのにすげーまぶしくってな。何だこりゃ、と目を開けたけれども、何にも見えない。暗いんじゃない。明るすぎて、何も見えないのよ。で、どうなっているんだ、と思っていると、まず、ごわーんと、

羊飼い3   鳴ったか?

羊飼い2   鳴った。おれの腹が。夕飯が早かったんだな。ま夜中には腹が減った。

羊飼い3   おまえの腹の虫の話しを聞いているんじゃねえやな。それからどうなった?

羊飼い2   見ていると、大天使ガブリエルがい出ましてな、そこな羊飼いめら、今宵、救い主、生まれまししぞ、とのたまわったな。

羊飼い3   ふむふむ。さすが大天使、擬古文調なわけだ。

羊飼い2   とだ、そこにたちまち天の大軍勢があらわれて、めでたや今宵、ちゃんちきちん。

羊飼い1   どんな様子だ?

羊飼い2   そらおまえ、こんなんなって、どかちゃか、あんなになってかっぽれさー

コルネリオ  イターチー!

イハッチ   はい、お呼びでございますか。

コルネリオ  イタチ!

イハッチ   イタチではございませんで。イハッチでございます。

コルネリオ  さようであったな。イタチ。最前、それがし貴様になんと申した。昨夜はま狭な宿でろくろく眠れなかったゆえ、今宵はゆるりと静かな部屋を、と申したな。

イハッチ   はい、さようで。

コルネリオ  ところが、何だ、あの騒ぎは。うるさくてかなわん、部屋替えをいたせ!

イハッチ   はい、コルネリオさま、ただいま、ただいま静めて参ります。どうぞご安心を。

 

イハッチさん、すぐさまお隣に参りまして、

 

イハッチ   エー、申し訳ありません。もう少しお静かに。あの、みなさん、

羊飼い3   天の軍勢、どかちゃかどかちゃか

羊飼い1   笛ふけ、太鼓もずんばらずったか

羊飼い2   天使も天の軍勢も、あらよっとこさー  はい?

イハッチ   あの、もう少しお静かに。

羊飼い1   なんで?

イハッチ   あの、お隣様がちとうるさいと…。

羊飼い3   いいじゃないか。陽気に騒いでいるんだ、文句あるか?

イハッチ   私(わたくし)めはいっこうに。ただ、そのお隣様が、あのローマの

羊飼い2   ローマの何だよ?

イハッチ   ですから、ローマのこれで。(と、右手で剣の柄をつかむ仕草)

羊飼い2   これって何だ? えっ、両(りゃん)こ、さむれー? 軍人? 将校? それを先に言えってんだ。判ったよ。静かにするって。

コルネリオ  いや、待て。それがし、隣室に泊まりおるコルネリオ大尉である。貴様ら、この天下太平な、パックス・ロマーナと言われる、かしこくも皇帝アウグストゥス様の御代に、

羊飼い1   あの、だんな、紙幅がねーんでさぁ。話しがなげーんで、何をおっしゃりたいんで?

コルネリオ  むむ、つまりこの泰平の世に他の国の軍勢がやって来た、と、貴様らそう申すのだな?

羊飼い2   へえ、その通りで。

コルネリオ  いや、聞き捨てならぬ。我がローマ帝国の主権を蹂躙する天の軍勢とやらは、いったいどうやって侵入したと申すのだ?

羊飼い2   そうおっしゃっても突然だったので。

コルネリオ  でも見ておったのだろう? どうであったのだ

羊飼い2   いやぁ、天からだったので、あっしにはどこから来たのか、“てん”で判りませんでした。

 

お後がよろしいようで。

余yoteki滴 説教の前の前、あるいはもっと前 「ヨセフは眠りから覚めると」

マタイによる福音書1章18-25節

(2017/12/8 保護者の会クリスマス礼拝のために)

 

ひそかに縁を切ろうと決心した(19節)

 

ヨセフは、袋小路にいる。

誰にも相談できない。

ヨセフは「マリアのことを表ざたにするのを望まず」(19節)にいる。自分ひとりの心の中に全てを飲み込もうとしている。

でも、問題が大きすぎて、ヨセフは「決心」してもなお「このように考えている」。

心は揺れる。

おだやかではないヨセフの眠りは、浅い。

 

身ごもっていることが明らかになった(18節)

 

マリアの懐胎は、既に「明らかになっ」ている、とマタイによる福音書は記す。

ヨセフが知った時、この事実は、もはや「明らかになっ」ている。

“不思議な出来事だ”と、話しに尾ひれがついてユダヤ中をゴシップが駆け巡っている、ということ、

ではない。

神が、一人の女の子を通してこの時代に介入なさる、のだということが「明らかになっ」ているのだ、と福音書は宣言する。

そして神が歴史に介在なさろうする時、人は無力。

だから、ヨセフは「ひそかに縁を切ろう」と「決心」する。

でも、ヨセフの思考は揺れ、「このように考えている」ままに、眠る。

 

主の天使が夢に現れて(20節)

 

すると、ヨセフの眠りに天使があらわれる。

「ヨセフ」とは、夢見る人。彼の遠い先祖も夢見る人(たとえば、創世記40章)。

彼は、夢の中で語りかけて来た相手のことを、「主の天使」であると知っている。「聖霊によって身ごもった」という不可解で、人の手に余る出来事のゆえに、ヨセフは、孤独のうちに苦悩してきた。でも、聖霊によるという事実が「明らか」であるがゆえに、ヨセフは、神の助けを信じている。

だから、語りかけて来た相手を疑わない。「主の天使」であることを疑わない。

 

ヨセフは眠りから覚めると(24節)

 

ヨセフは、神の決定の前に身を置く。「主の天使が命じたとおり」に生きようとする。

彼は、そのことを不条理とは思わない。否、マタイによる福音書を残した信仰共同体が、不条理だとは思わない、というべきか。

ヨセフによって示される信仰者の姿勢は、神の絶対的な支配への信頼。

神がなさることに、信仰者として、どのように参与して行くことが出来るのか、ということを祈り求めることこそが、神への信頼。

それ故、福音書は、“ヨセフを”、私たちに示す。

神の御旨を生きる人として。マタイによる福音書を残した信仰共同体の、信仰に生きる生き方の模範として。

余yoteki滴 説教の前の前、あるいはもっと前「神のものは神に」

マタイによる福音書22章15-22節

2017/10/22(三位一体後第19主日に)

 

それから、ファリサイ派の人々は出て行って、(15節)

 

彼らは、キリストの前から立ち去る。“出て行った”先はどこなのだろうか。

キリストの前を離れて、私たちはどこへ、“出て行く”のか。

“私はキリストの前から離れない”、などとは言えない。

私の心は、いつでもキリストの前から離れて、自分の思いへと向かって行く。私はそのようなものに過ぎないから。

 

キリストから遠く離れて

 

彼らが、キリストから遠く離れて企むのは、キリストの「言葉じりをとらえ」ること。

キリストに敵対するものが、キリストを信じるものよりも、深くキリストの御言葉を聴こうとするのは不思議、

ではない。むしろ、

敵対し、「言葉じりをとらえ」ようとする熱意のゆえに、彼らは真理を聴くものになる。

だから忘れてはならない、私が漫然とキリストの前に居るつもりになっているその時に、キリストに敵対するものは、私などよりもはるかに深い聴き手である、ということを。

 

先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。(16節)

 

彼らは、キリストというお方を理解している。

マタイによる福音書は、警告する。

いつの時代でも、キリストに敵対するものたちは、“真理を語って”キリストに対抗するのだ、ということを。

 

ところで(17節)

 

彼らは本題に入る。

 

お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか(17節)

 

覚えておかなければならないのは、彼らは税金を納めている立場。

ローマ帝国の秩序、治安、統治、覇権、安定、政策というものを、(必要悪であると捉えているかどうかは別にして、)是認する立場。

貧しさの中から、辛苦して税金を納めているのではない。

自己の状況を、ローマ帝国という地上の権威が、その支配が保証するということを“よし”としている。

だから、

彼らの中では、メシアを待つユダヤ教徒としてのありようと、ローマ帝国の(市民権の保持とは関係がなく)「臣民」ということとは矛盾しない。併置し、聖と俗とを切り替えるように、応変できる。

でも、

イエスが「教えくださ」るのはそういう生き方ではない。

イエスが「教えくださ」るのは、

キリストが来られた、ということを知って生きるということは、聖と俗とを使い分ける技巧を、知恵として誇る生き方ではない。

キリストが来られた、と知ったものは、キリストの内に生きる。

 

税金に納めるお金を見せなさい(19節)

 

キリストは、彼らに言われる。

今ここに、この神殿の境内というこの場所に、「税金に納めるお金を」持って来なさいと。

彼らは顔をしかめて舌打ちする。

この人は、聖なる神殿のうちに居られながら、その場所に、デナリオン貨を持ってこいと言われるのか、と。

聖なる場所には聖なる貨幣がある。

この神殿は、世俗の権威であるローマ帝国のただ中にあって、孤島のように独坐する聖なる領域。世俗の権威に対抗する唯一の場所。

そこに、

世俗の支配の象徴であるデナリオン貨を持ち込もうとするのは、聖と俗とをはっきりと遮断してこそ保持できる区別をあいまいにする。

彼らは嫌悪を示す。

でも、イエスは、要求される。「税金に納めるお金を見せなさい」と。

今や、キリストは来られ、聖と俗とを儀礼的に遮断する必要は終わった、とイエスは言われる。

キリストの権威が既にこの世の中に光としてある以上、神殿にデナリオン貨を持ち込んではいけない、という禁忌は意味を持たない。

むしろ、神殿が聖域なのではなく、

キリスト御自身がまことの権威としてお立ちになっておられる“そこ”が、“そこ”こそが聖別された所、神殿となる。

 

デナリオン銀貨を持って来る(19節)

 

だから、マタイによる福音書は、ごく当たり前の事のように、何か、財布から取り出すかのような気楽さで、「デナリオン銀貨を持って来ると」と、記すが、この一文にこそ、キリストの全能の権威が示される。

彼らは、“見せなさい”と命じられるキリスト権威に抵抗できない。

キリストが“見せてごらん”、と私に語られる時、

私は、

自分の手が握りしめているものを、

手をゆっくりと開いてキリストに見せる。

私は、

いつでも、キリストに見せたくないものを、手の内に、心の内に、抱え込んでいる。

 

キリストの前から「出て行」(15節)こうとする

 

そして私は、

いつでも、キリストの前から「出て行」こうとする。だから、

私は、

いつでも、キリストの前か「出て行」こうとする私と、キリストの前に留まろうとする私との間で、軋む。そう、キリストの権威の前で、“すべてはあなたのものです”、と私が全身で告白することを、いつでも主は、待っておられる。

 

「これは、だれの肖像と銘か」(20節)

 

私が、神のものでありながら、この世のものでもあろうとする時、私が頼るのは、この世の「肖像と銘」。

「ハイデルベルク信仰問答」は問94の答でこう教えてくれる。

「わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために、あらゆる偶像崇拝、魔術、迷信的な教え、…を避けて逃れるべきこと」。

 

この世の権威は、経済、繁栄、優位、情報を保証してくれる。

しかしそれは、偶像崇拝。

私はいつでもそれらから全力で「避けて逃れ」なければならない。キリストのもとへ。

 

皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい(21節)

 

マタイによる福音書21章23節において、祭司長や民の長老たちが、「何の権威で」と問うた。

その結果、キリスト御自身が権威であるということが明示された。

キリストのご支配の中にあって、キリスト以外の全ての「肖像と銘」は、その権威を失う。

それ故、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」とイエスが言われる時、それは、私の持っているものの何分の一かを神に返すこと、ではない。キリストの権威の前では、私の全てが「神のもの」なのであり、私という存在そのものが「神のもの」なのだから。

私が抱えているものがデナリオン貨であろうと、偶像崇拝へと傾いてしまう弱さであろうと、キリストは、私に、

“さあ、手をひらいて、あなたが手のうちで必死に握りつぶそうとしているものをみせてごらん”、と語りかけてください。

“見せてごらん。あなたの弱さをも、恥をも、見せてごらん。そのすべてを私に差し出してごらん”。

キリストは私に、語ってくださる。

 

彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った(22節)

 

キリストは、敵対するものたちをも招かれる。彼らに、「持って来」なさいと命じられる。自分を、

ありのままの私を、キリストの目の前に「持って来」なさい、と言われる。

私も、

手の中、心の内に、握っているものを持ってキリストの前に立つ。

でも、

イエスが私に「神のものは神に返しなさい」、あなた自身、あなたの全ては「神のもの」なのだからあなた自身を「神に返しなさい」と言われる時、私は、その御言葉の絶対性のゆえに、

揺らぐ。怯む。

そして、

せっかくありのままの自分を、「持って来」たのに、

せっかくキリストの前に至ったのに、

せっかくキリストからあなた自身を「神に返しなさい」と言っていただいたのに、私は、

躊躇する。

 

マタイによる福音書を残した信仰共同体は、キリストの絶対的な宣言の前に立つことが畏怖すべき事だと知っている。

ここまで来たのに!

キリストの御言葉の前に至ったのに!

差し出せない弱さを、私たちが生きていることを承知している。

「聞いて驚き」はしても、「イエスをその場に残して立ち去」るだけで終わる弱さを、福音書は、知っている。

「神に返し」つくして生きることの難しさを知っている。

そして私も、「立ち去」ることしか出来ないもの。

 

であったとしても、私は、「神のものは神に返しなさい」というキリストの御声を聴いたものとして、歩み出す。

もう、決して、それ以前の聴いたことがない自分へは後戻りできない。

そして主は、

“キリストの恵みの内に、キリスト共に歩み出しなさい、さあ、もう一度、今度こそは「立ち去」らずに”、と、

何度でも私に語りかけてくださる。

余 yoteki 滴  2017年12月3日

「もし、お前が正しいのなら」(創世記4章7節)

「カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た」(3節)。でも、神はカインをかえりみない。そして神は、カインにこう言われる。

「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」(6-7節)。

私には、この神さまの言葉が判らない。

と言うよりも、キライ。

“正しい”と、私が思っていても、顔を上げることができないことは、ある。というよりも、その方が多い。

怒りがある時に、顔を伏せて、その怒りを自分の内に堆積させることもある。というよりも、その方が多い。

怒りで奥歯を噛み砕く事もあるし、怒髪天をつく事もあるし、中国の故事(だったと思うけれども)で言うのであれば、怒りの内に叩頭して、ついに額を打ち割って死んでしまうことも、ある、と思う。

神はそういう人の思いを理解してくださらないのか。私は、いつでもカイン。

神の前に顔を伏せるしかない、そういう自分を持て余すカイン。

神は、なぜ顔を伏せて怒りを鎮めようとするカインの“気持ち”を聞いてくれないのか。

神とは、そのように私に、カインに、寄り添う方では決してない、ということなのか。

怒りは、顔を伏せさせる、と私は思う。主の“正しさ”を尋ねる怒りは、いつでも私の顔を伏せさせる。

怒りは、悲しみと「双子」。

怒りの半分は、悲しさ。

だから私は、主の前に顔を伏せる。そしてカインを思い出す。「カインは激しく怒って顔を伏せた」(5節)と聖書は記すが、カインの「激しい怒り」は、「双子」の「悲しみ」を伴ってカインの心中に発している。そして、「怒り」と「悲しみ」という「双子」は、「絶望」という「卵」を温めている。心の内に、「絶望」が孵った時、カインは、「兄弟」アベルを殺す。自分の心を切り裂く。

神はそのようにカインを追い込まれる。

私はそういう神さまがキライ。

追い込まれ、心の内に「絶望」を孵化させてしまうカインに、私に、私は肩を落とす。私は神さまのなさりようが判らず、神の前に空回りする。

さて、この聖句は11月28日のローズンゲン。私は、この気持ちを持て余しつつ週日を過ごしていた。

というのも、私はその前日(11/27)、福島の白河教会で葬儀に列していた。67歳で地上の生涯を終え、主の前に帰った牧師の葬送式。

彼は富山の教会に仕えている時に病いを得、不自由な思いをしながら、主が用いてくださる仕方で、教会に仕えて来た。

彼が病いを得た時にも、私は、“主よ、どうしてなのですか”、と主に尋ね、主の前に怒り、顔を伏せた。

彼の召天の報に接した時にも、“主よ、なぜなのですか”、と主に尋ね、主の前に怒り、顔を伏せた。

彼は、19日の主日に、或る教会で説教の奉仕をし、翌日倒れ、22日に帰天した。最後まで主の僕であり続け、神の前に献げものを、実りを、持って来る歩みを続け、そして取り去られた。

木曜日(11/30)のローズンゲンは、出エジプト記33章17節。

『主はモーセに言われた「あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである」』。

私は、“いいかげんにしてくれ”と思う。

モーセにここまで言ってくださるのであれば、カインに、そのほんの少しでも、なぜ、声を掛けてくださらないのか。

“主よ、私は至らないものですから、「好意を示し」ていただく程もののではない事は知っています。でも主よ、あなたの選択の基準が私に判りかねます”。

私の心はそう叫ぶ。

叫びつつ、私は『ハイデルベルク信仰問答』をめくっている。

『ハイデルベルク信仰問答』問127(問「第六の願いは何ですか」)の答は次のとおり。

「われらをこころみにあわせず、

悪より救い出したまえ」です。

すなわち、

わたしたちは自分自身あまりに弱く、

ほんの一時(ひととき)立っていることさえできません。

その上わたしたちの恐ろしい敵である

悪魔やこの世、また自分自身の肉が、

絶え間なく攻撃をしかけてまいります。

ですから、どうかあなたの聖霊の力によって、

わたしたちを保ち、強めてくださり、

わたしたちがそれらに激しく抵抗し、

この霊の戦いに敗れることなく、

ついには完全な勝利を収められるようにしてください、

ということです。

(『ハイデルベルク信仰問答』吉田隆、訳、新教出版社)

カインが心の内に「絶望」を羽化させてしまったように、私も、心の内に「神への懐疑」を育てている。この卵は、「怒り」と「悲しみ」という「双子」があたためていたもの。私の心は、カインの心は、その揺籃になる。

そして、それは500年前に、『ハイデルベルク信仰問答』を残した人々も同じ。

彼らは、戦乱、凶作、飢餓、疫病、不信、振りかざされる正義、の只中で、カインの心を抱えている。自分自身の内側に「恐ろしい敵」を抱えている。だから、カインの心と同じにならないために「激しく抵抗」する道を選ぶ。

確かにそれはりっぱ。

でも私は、その“健全さ”にもうんざりする。私はそんなに健康ではない。

怒りの中で、奥歯を食いしばってそれに耐えることは出来ても、「激しく抵抗」して「ついには完全な勝利を収められるように」と祈る健康さを、私は、生きてはいない。

だから私は、『ハイデルベルク信仰問答』のこの答えに感銘を受けつつも、その祈りの深さに驚嘆しつつも、私はその前に立ち止まるしかない自分を生きる。

神の遠さを思い、カインである私は、でも私が「兄弟」を殺さない生き方をするには、私は神に何を願って行けばいいのかと尋ねるために、私は、歩んで行く。

キライな神さまに尋ねるために歩んで行く。この一週間もそうであったように、これからも。

キライな神さまの前を、行きつ戻りつしつつ、歩んで行く。

先に御国へと帰った同期の教師の、神の前での柔らかな歩みを思い起こしつつ。

余yoteki滴 終末節黙想

「自分の財産」 マタイによる福音書25章14節

(2017/11/19 終末前主日に)

 

14自分の財産を預けた

 

キリストは、天の国は、私たちに神が「己が所有(もちもの)を預くるが如し」、と言われる。

神は、私に預けてくださる。御自身のものを。

「預かる」というと、何か消極的な印象。でもこの字は、「委ねる」、「託す」とも言い得る。

私たちに、キリストは託してくださる、委(まか)せてくださる、御自身の所有(もちもの)を。

 

16五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンもうけた。

 

「商売」と新共同訳は翻訳している。が、この語は、「働かす」という意味。「商売」というよりも貨幣を働かせる(という意味での)「投資」とか「運用」というニュアンス。文語訳は、「五タラントを受けし者、は直(ただ)ちに往(ゆ)き、之(これ)をはたらかせて、他に五タラントを贏(もう)け」と「はたらかせて」と訳している。資産運用と言うべきか。

 

で、文語訳は「儲ける」というところに、「贏(もう)ける」という漢字をあてている。中国の古い字書である「説文解字」では、この「贏(エイ)」という字を、「有餘、賈利也。从貝エイ(「贏」という字の下の月と卂(あるいは凡)の間が貝ではなく女)聲」と説明している。よって白川静は、「貝を財利の意と解するものであろう」と説明する(「字通」)。つまり、「贏」という字には、賈しての余利、余剰、利ざやという意味が強い、ということ。

 

16ほかに五タラントンもうけた。

 

あるいは、私たちは、発想を転換して次のように考えた方がいいのかも知れない。

神が、御自身の所有(もちもの)を預け、託して行かれるのが、「天の国」なのだとすると、神から託されたもので「もうける」ということが推奨されているのでは、ない、ということ。

神の「所有(もちもの)から利ざやを得るなどということよりも、神から託された「タラント」を、恵みを、祝福を、5タラントンもの大量の賜り物を、余さず人のために用いることこそが、求められているのではないか、と。

もちろん彼らは「宜(よ)いかな、善(ぜん)かつ忠(ちゅう)なる僕(しもべ)」と言われる。でも、本当に神の所有(もちもの)に対して忠実な良い僕は、託されたもので余剰を得るのではなく、ましてや、「汝(なんじ)のタラントを地(ち)に藏(かく)しおけり」とするあり方でもなく、主人が帰ってきた時に、

“託されたあなたのタラントは、ご覧ください、他者のためにきれいに使い尽くしました”、

ということができる歩みなのではないだろうか。

余yoteki滴 終末節黙想

「ともし火」 マタイによる福音書25章1-13節

2017/11/12(終末前々主日に)

1そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。

キリストは、このように、地上での最後の説教をはじめられる。

このイエスの教えは、

12わたしはお前たちを知らない

とくくられる。

この句は、マタイによる福音書7章23節の

あなたがたのことは、全然知らない

と対応する。

キリストの、地上での最初の説教である「山上の垂訓」がそのように締めくくられるのに対応する。

 

と言うのも、マタイによる福音書を残した信仰共同体は、その位置がどこであろうと、ユダヤ教共同体からも、或いは、多神教社会からも隔絶した陸の孤島のような、大海に浮かぶ島のような小さな共同体。

そして、その共同体は、イエスを「義の教師」として信じ、その教えを生きようとする群れ。

でもだから、

自分たちがイエスの教えを生ききれない、ということを知っている。

小さい信仰、「小信仰」と呼ばれてしまう、信仰的な弱さを生きている自覚がある。

主から教えられた信仰を生ききることができない、自分たちの(信仰を生ききることができない、という)弱さ、至らなさを、終末の切迫という感覚の中で、自分たちの悩み,、困難として受け止めている。そして、「あなたたちのことは、全然知らない」と、終末の時に主に言われてしまうのは、私だ、との自覚に生きている。

 

だから、

主から「わたしは、お前たちを知らない」と言われるであろう信仰の弱さを、でも、信仰に踏みとどまり続ける歩みを、次の世代に伝えて行かなければならないと思っている。

そして、

それでも自分たちがイエスから教えられ生きてきた信仰を、書き記して次世代に伝えて行こうとしている。

 

先日、皆川達夫先生の講演を聴く機会があった(2017年11月11日。立教大学)。

その中で、皆川先生がキリシタンの信仰を「キリスト教的礼拝をする多神教信仰」とおっしゃった。いろいろな評価があると思うが、概ねそういうことであろうと思う。

 

キリシタンの人たちが、「サンタ・マリアさまの御像はどちらですか」とプチジャン神父に尋ねたのは、1865年3月17日。この日を「長崎信徒発見日」という。そのことをきっかけにして、浦上四番崩れという過酷な迫害を、江戸幕府−明治政府は起こす。

 

いずれにしても、キリシタンからカトリックに回帰した人たちと、今でもキリシタンの信仰に留まっている人たちとがいる。隠れてはいないわけですが、キリシタンとしての信仰を生きている。で、それはキリスト教かというと、難しい。皆川先生が言うような「キリスト教的礼拝をする多神教信仰」というのが正しいのだと思う。200年、300年と経つうちに、信仰が変質して行く。それは或る意味、自然なこと。

 

だから、マタイによる福音書を残した信仰共同体も、自分たちがイエスから受けた信仰が、最初の信仰とは違ってきているのではないか、ということへの危機感、そういうものを強く感じて、そして、福音書を残して行かなければならないと感じている。次の世代に伝えて行かなければならないと感じている。

 

1十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。

さて、10人のおとめがともし火を持って、花婿を出迎えに行く。

2そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。

 

私はいつでもこの箇所を読み間違える。五人は賢かった、五人は愚かだった、の順番ではないかと思ってしまう。

 

なぜ、「愚か」といわれている「おとめ」たちが先なのか。

「賢い」と訳されている言葉は、勉強ができるとか、成績が優秀だ、とか言う意味ではない。調和的で、回りに配慮できる、ということが、ここでは、「賢い」と訳されている。

 

では、「愚か」とはどういう意味なのか。

で、私は、マタイによる福音書を残した人たちが、自分たちのことを「愚か」なおとめの方になぞらえているからなのではないか、と思う。

先に言ったように、マタイによる福音書を残した信仰共同体は、この世の他の人たち、ユダヤ教共同体であれ、多神教の世界に生きる人たちであれ、そういう人たちから浮き上がって生きている。

調和的に、この世の他の立場の人と融和的に(或いは宥和的に)生きることができない。それをすると、自分たちがイエスから教えられた生き方が変わって行ってしまう。

キリシタン信仰が、キリスト教信仰から次第次第に変質して離れて行かざるを得なかったように、イエスから教えられた生き方が、変質して行くのではないか、と恐れている。

だから、この世の人たちから見れば、「愚か」としか言えない生き方しかできない。

他の人々から隔絶して生きるしかない。

それゆえ、「愚か」なおとめのことを、マタイによる福音書を残した人たちは、自分たちのことだと感じる。

 

3愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。

4賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。

5ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。

「愚か」と言われているおとめ達も、「賢い」と言われているおとめ達も、共に眠り込んでしまう。

眠ってしまうのは一緒。

眠ってしまうのは咎められていない。

ゲッセマネでキリストが祈っておられる時に、弟子たちは皆、眠ってしまう。確かにキリストは、「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか」(マタイによる福音書26章40節)とおっしゃるが、それは叱責ではないし、眠ってしまったことで弟子失格になるわけではない。

では、何が「愚か」なのか?

油を持って来なかったことか?

花婿の到着は遅れに遅れて、真夜中になった。やっと「花婿だ。迎えに出なさい」との声がする。寝ていた10人のおとめは、皆、起き出して「それぞれのともし火を整えた」。

 

8愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』

9賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』

「愚か」なおとめ達が「消えそうです」と言った時、「買って来なさい」というのは「賢い」のではなく、意地悪ですよね。コンビニエンスストアがあるわけではないのに、「買って来なさい」はないと思う。まあ、「乙女」というものは、意地悪なもの、なのかもしれないが。

 

第一、この時、10人のおとめ達のともし火は、消えてはいない。

「愚か」なおとめ達のともし火も、「消えそう」なのであって、消えてはいない。

ところが、この「愚か」なおとめ達は、「買って来なさい」という、賢い、じゃなくて意地悪な、おとめ達の言葉に従ってしまう。

 

では、「油」とは何か。

信仰は、他人から継ぎ足してもらえるものではない。

他人からもらえるものではない。

渡辺信夫先生が書かれた若い頃の説教集『イサクの神、ヤコブの神』に、「親の信仰がそのまま無造作に子の名義に書き換えられるのではありません。親への祝福は…これは霊的な祝福ですから、霊的に受け容れられ、霊的に受け継がれねばなりません。…神の契約は永遠的なものですが、それは一代一代更新されるということによって永続するのです」(p.59以下)という言い方が出て来る。その通りだと思う。偉大な信仰は、引き継げない。

 

信仰は、一人ひとりが、神と対話する中で養われ、深められて行くもの。誰かからもらったりすることのできないもの。

そして、

「愚か」なおとめ達のともし火は、まだ消えていない。

 

祈りは、自分の言葉で祈るものであって、誰かから借りて来て祈ることができるわけではない。もちろん、成文祈禱はあるし、充分に用意された祈りもある。でも、その祈りの言葉に「然り」、「アーメン」と、言えるかどうかは、その言葉が自分のものになっているかどうかにかかっている。

 

さて、「愚か」とは何か。

「愚か」とは、“花婿がきた。迎えに出て来なさい”と言われているその状況、つまり、花婿が到来している、目の前に、ここに、私の前に、キリストが来ておられる、という状況なのに、花婿の前を、キリストの前を離れてしまうということ。

油を買いに行ってしまうということ。

まだ、ともし火は、「消えそう」ではあってもともっている。

なのに、その自分のともし火、信仰を信頼することができず、今、この時、花婿が来ている時に、キリストが来られた時に、その場を、キリストの前を離れてしまう、ということ。

 

私たちは、キリストを待つ間、眠り込んでしまってもよい。

「目を覚ましていなさい」と確かに教えられているけれども、それでも眠り込んでよい。

信仰は、そんな緊張し続けていては保てない。

桂枝雀は、落語は「緊張と緩和」だと言ったが、信仰も「緊張と緩和」。

キリストの前に、いつ来られるか判らないキリストの前におるのだ、という緊張と、そのキリストの前で眠り込んでしまうことが許されるという緩和、安心、神の前におるという安らぎ、それが信仰。

信仰とは、ですから桂枝雀風に言えば、「緊張と安らぎ」です。

でも、

神の前を離れてはいけない。

自分の信仰の弱さ、ともし火のあやうさを知っているのであればなおのこと、キリストの前を離れてはいけない。

油を買いに行く必要はない。

賢く、でも意地悪なおとめの言葉にのせられてはいけない。

 

カトリックの神父さまの言葉なので、私たちにはやや判りにくいが、アルベリオーネ神父の言葉。

カトリックの場合、聖餐式のパン(ホスティア)が、聖櫃或いは聖体顕示器に納められて、礼拝堂(聖堂)に安置されている。神父は、このご聖体を訪問する。そして、今、ご自分の生涯が終わろうとする時に(だと思う)、このように言う。

「わたしは毎日イエスを訪問しにいった。みもとにいこうとしている今、イエスがわたしを迎え入れられ、ご自分を示され、ご自分を明らかに見せられ、そして、顔と顔を合わせて彼を見るようになるという確信がある。わたしはいつもみ顔とその霊とその愛とを捜し求めた。彼はわたしを遠ざけられはすまい」。

キリストの前に留まり続けて、わずかでしかない、小さな信仰を、そのともし火を消すことがないように、消えないように、主に祈る。キリストの前に留まり続ける、それが「愚か」でしかないけれども、でも、「愚か」にならない終末を待ち望む私たちの姿勢なのだと、今日、マタイによる福音書は、私たちに教える。

余 yoteki 滴 2017年7月30日

ヤコブのおはなし

採用されなかった《夏期学校》の劇台本

(第1の場)レンズ豆(創世記25章27-34節)

 

ナレーター  ある日の夕方、ヤコブはレンズ豆の煮物を作っていました。

ちなみに、レシピは次のとおりです。

まず、レンズ豆を収穫します。その際に、虫に食われていたり、割れていたりするのを除きます。

つぎに、レンズ豆をきれいな水で洗います。水に入れた時に、浮いてきた豆は、やはり除きます。

そして、一晩、水につけておきます。

朝になったら、鍋に豆を移し、ゆっくり、ことことと、煮ます。

その時、豆のこと以外、考えてはいけません。

レンズ豆は、赤い豆なので、ヤコブの頭の中は「赤いもの」という意味の「アドム」という言葉だらけになります。

ヤコブ    アドム、アドム、アドム、アドム、(無限に)…

ナレーター  ヤコブの頭の中のレンズ豆と、鍋の中のレンズ豆とが程よく煮えてきたら、岩塩を削って味を整えます。

ヤコブ    アドム、アドム、アドム、アドム、(無限に)…

ナレーター  おっと、草原からお兄さんのエサウが帰ってきました。

エサウ    ヤコブ、お前は朝から何をしているんだ? その鍋の中のアドムは何だ?

ヤコブ    アドム、アドム、アドム、アドム、エドム、エドム、エドム(無限に)…

エサウ    おいヤコブ、お兄さんの私を、今、あだ名の「エドム」で呼び捨てにしたな?

ヤコブ    アドム、エドム、アドム、エドム、アドム、エドム(無限に)…

エサウ    そう何度も人のことを呼ぶなよ。ああ、いいにおいだ。ヤコブ、わたしは疲れきっているんだ、その赤いもの、そこの赤いものを食べさせておくれ。

ヤコブ    アドム、エドム、アドム、あ、お兄さん、お帰りなさい。すみません、レンズ豆を煮ている時には、レンズ豆のことしか考えちゃいけないものですから、お兄さんが帰ってきたのに気がつきませんでした。アドム、エドム、アドム、エドム、えーとエサウお兄さん、何か言いましたか?

エサウ    だから、その赤いもの、そこの赤いものを食べさせておくれ、と言ったのだよ、私は疲れきっているんでね。

ヤコブ    いいですよ。そろそろ美味しく煮えてきたところです。ところで、このレンズ豆の煮物にパンと美味しいハーブティーをおつけしますが、いったい、何と交換しますか?

エサウ    交換したくても、今日は何もとれなかったから、交換するものを持っていないんだ。次に倍にして返すからさ、その赤いもの、そこの赤いものを食べさせておくれ。私は疲れきっているんだよ。

ヤコブ    じゃあお兄さん、お兄さんの長子の権利を譲ってください、それと交換しましょう。

エサウ    私の持っている長子の権利? そんなものでいいのか? 食べられないぞ?

ヤコブ    食べられなくてもいいです。お兄さんの長子の権利を譲ってください。今すぐ、譲ると誓ってください。

エサウ    ああ、もうおなかがすいて死にそうだ。誓うよ。長子の権利は、ヤコブに譲った。

ヤコブ    では、私もレンズ豆の煮物にパンと美味しいハーブティーをつけてお兄さんに譲ります。

エサウ    ありがとう。ではいただくことにしよう。いただきまーす。

ナレーター  エサウは、レンズ豆の煮物を一鍋と、パンと、ハーブティーとを美味しそうに、食べていますねぇ。あ、食べ終わりました。「ごちそうさま」ってヤコブに言っています。うわっ、手の甲で口の回りを拭いました。あっ、その手の甲もなめています。「じゃあ、またあした。おやすみなさい」なんて言っています。あっ、行ってしまいました。

 

・ 今年のCS夏期学校(7/22(土)13:30-19:00)は、「イエスさまの光を映して – ヤコブ物語から – 」と題してもたれました。人数は決して多くはありませんでしたが、楽しい、充実したひと時でした。

・ なお、テーマは「季刊教師の友」7月30日の説教例題から採用されました。7月の「季刊教師の友」の教案がヤコブであるのにあわせて、夏期学校のプログラムは、組み立てられました。

・ 掲載の台本は、不採用になったものです。実際には、楽しく体験できる7場ものの「ヤコブ物語り」が演じられました。